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対人援助のお勉強ブログ 2010年04月・05月


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2010年05月31日(月)

自分を守れない、過度に守ろうとする相手を受け容れる(2)
  また、「他人のせいにする」といった防衛機制もあります。この防衛機制が全く機能しない場合は、何が起こっても全て自分のせいになります。それはあまりにもしんどいです。そんなときは援助が必要です。また逆に、他人を激しく責め立てるなど、人のせいにし過ぎるときもあります。それは、自分の中にある、やましい気持ち、うしろめたい気持ちなどを他人の中に見つけ出して、他人を攻撃する。そのことによって、自分のやましい気持ちやうしろめたい気持ちを軽くしようとしているのです。
 例えば、あなたには差別意識があるとしましょう。実は、人には、本能・衝動・欲求として差別意識があるのです。世界中の歴史が物語っています。でも、それではいけないので小さなときから人権教育を受ける。ですから、あなたは、差別意識があり、どうしてもそれを口にしてしまいたいときに葛藤します。「言ってしまいたい。でも言ってはいけない」。激しく葛藤しているとき、平気で差別発言をする人が横にいたとしましょう。あなたは、その人を捕まえて、「お前は何てこと言うんだ!」と必要以上に激しく責め立てます。そのことによって、あなたは、自分の中にある「差別発言をしたい」といううしろめたさを軽くしているのです。このように過度に人のせいにするような場合は、葛藤が大き過ぎる場合が多く、援助が必要です。



2010年05月30日(日)

自分を守れない、過度に守ろうとする相手を受け容れる
 葛藤や不安を抱えてしんどくなると、人は、そのしんどさから自分を守ろうとします。その心の働きを「防衛機制」といいます。適度に防衛機制が機能するときは何ら問題はありません。むしろ防衛機制が機能しないことには、自分を守ることはできません。しかし、全く機能しないときや機能し過ぎるときは援助が必要なのです。
 まず、次のような防衛機制があります。「つらいことや嫌なことがあっても、無意識のうちに忘れてしまう」という防衛機制です。これは正常な心の働きです。でも、忘れられないときがあります。それは心が疲れているとき。あなたもそのような体験をしたことはないでしょうか。仕事やプライベートでつらいことが重なり、燃え尽きの症状が出ています。「今までなら、こんなことはすぐに忘れていたのに、最近、いつまでもクヨクヨと考えてしまう」というようなときです。こんなときは援助が必要です。
 また、自分の心の力ではどうしようもない体験をしたとき。毎日のように、大きな事件、事故、災害などで、心に傷を負うような体験をする人たちがおられます。例えば、殺された女の子の両親や友人、事故で周りの人は皆死んでしまったのに自分だけ生き残ってしまった人、地震で隣に寝ていた母親を亡くした息子・・・毎日のように報道されています。心に傷を負い、そのつらい出来事をいつまでも忘れることができない。そんなときは援助が必要です。



2010年05月29日(土)

矛盾する気持ちを聴く
 ときとして、人は矛盾する複数の気持ちを同時に抱えます。あなたは、こんな体験をしたことはないでしょうか。あなたは満員電車に乗っていました。疲れ切っています。吊革にぶら下がるように立っています。もうフラフラです。「座りたいなあ」と思っていました。すると、前に座っていた人が電車を降りました。「よかった」と思ってあなたは座りました。ところが、次の駅でおじいさんが乗って来られました。あなたはおじいさんを目で追いました。「こっちへ来ないで!」。そう思ってしまいました。ところが思いむなしく、おじいさんはあなたの目の前に立ってしまわれました。チラッと見上げると、おじいさんはシャキッとされてます。でも疲れてらっしゃるようにも見えます。あなたは悩みました。「おじいさんに席を譲らなければいけない。でも疲れてるから座ってたい」。
 「おじいさんに席を譲らなければいけない」気持ちと「疲れてるから座ってたい」気持ちは矛盾しています。相反しています。「疲れてるから座ってたい」という気持ちは、心や体が自然に求めるもの、いわば本能・衝動・欲求といわれるものです。人は生きている以上、必ずもっています。これに対して、「おじいさんに席を譲らなければいけない」という気持ちは、親の教え、世間の教え、社会の教え、いわばこの世の中で生きていくための秩序・ルール・道徳です。
 生まれたばかりの赤ちゃんは、本能・衝動・欲求だけで生きています。おなかが空けば泣き叫びます。お母さんからお乳をもらうと満足してスヤスヤ眠ります。おしっこがしたくなるとところかまわずします。赤ちゃんはそれでいいのです。でも、大人が本能・衝動・欲求だけで生きていては困ります。大人が、おなかが空いたからといって叫び回っては困ります。おなかが満たされたからといって、いつでもどこでも寝るわけにはいきません。おしっこがしたいからといって、どこでもしたらいいというわけではありません。大人には、秩序・ルール・道徳が必要なのです。
 ですから、赤ちゃんは、大人に教えてもらって、秩序・ルール・道徳を徐々に身につけるのです。ところが、大人になるにしたがって困ったことが起こります。何かというと、本能・衝動・欲求と秩序・ルール・道徳は、相反することが多いのです。「おじいさんに席を譲らなければいけない。でも疲れてるから座ってたい」と相反する気持ちが心の中で戦い、どうしたらよいかわからなくなるのです。これが葛藤です。
 葛藤すると不安が生じます。席を譲らないで座ったままだと、「私は福祉の仕事をしているのに、おじいさんに席を譲らないなんて、何と情けないのだ・・・」。こうして人はしんどくなっていくのです。
 あなたにもこのようなときがあるように、相手にもこのようなときがあります。葛藤を抱えた相手を受け容れるのは、そんなに容易なことではありません。葛藤を抱えている人を目の前にすると、「いったいどうしろと言うの!」と感じます。でもそんなことを言ったら、二度と相談には来てくれません。ですから、葛藤や不安を抱えている気持ちそのものを聴く態度が大切なのです。



2010年05月28日(金)

「同情」ではなく「共感」する
 「同情」も「共感」もよく使う言葉であり、人の態度です。辞書に書いてある説明とは違い、誤解を招くかもしれませんが、対人援助職が意識しておいた方がよいと思いますので、あえて次のような説明をしておきたいと思います。
 「同情」は、人であれば誰もができることですが、対人援助職はできるだけ避けたいこと。「共感」は、意識したり、トレーニングしないとなかなかできないことで、対人援助職がしなければいけないこと。
 あなたは、こんな場面を経験したことはないでしょうか。友人が、つらかった体験を話し出しました。あなたは、「わかるわかる、それってすごくつらいよね」と思わず返しました。「わかるわかる・・・」は、ありがちな応答です。しかし、気をつけていただきたいのです。「わかるわかる・・・」というのは、実は、「全然わかってません」という意味なのです。どういうことなのかというと、「わかるわかる・・・」と言った時点では、あなたが、友人と同じような体験をしたときのつらい気持ちを思い出しただけなのです。思い出したと同時に「わかるわかる・・・」と思わず口走ってしまったのです。まだ、友人の気持ちがわかったところまでたどり着いていません。これは同情です。同情とは、相手の気持ちがわかったのではなく、あなたの気持ちが勝手に盛り上がった反応。特に、悲しい気持ちやつらい気持ちなどに対する反応です。
 これに対して共感は、あなたの気持ちはともかく、相手の気持ちをわかろうとすること。実は、同じような体験をしたことがあると、共感しにくいのです。なぜならば、あなたの気持ちと相手の気持ちを混同、もしくは同一視してしまいやすいからです。同じような体験をしても、もっと言えば、同じ時間、同じ場所で、同じ体験をしたとしても、あなたの気持ちと相手の気持ちは違うのです。同じということはあり得ません。なぜあり得ないのかというと、あなたと相手は抱えている人生が違うからです。今置かれている状況も違うからです。
 例えば、家族は何人なのか、夫との関係はどうなのか、子どもはもう大きくなっているのか、親は健在なのか、介護が必要なのか・・・家族関係一つとっても、あなたと相手は抱えているものが全く違います。抱えているものが違うと、同じつらい体験をしたとしても、つらさの中味が違うのです。悲しさの中味が違うのです。
 では、同じような体験をしたことがあると、共感できないのかというとそんなことはありません。一定の手順を踏めば共感までたどり着くことができます。どのような手順かというと、まず、相手と同じような体験をしたことがあって、あなたはそのときの自分の気持ちを思い出しました。その自分の気持ちを手がかりにして、相手の気持ちを想像できます。そして、相手に尋ねてみるのです。「私は、こんなふうにつらかったけど、あなたはどう?」。そうすると相手は、「そんなつらさもあるけど、私にはこんなつらさもあるのよ」と返してくれます。何回かやり取りしていると、あなたは、自分とは違う相手のつらい気持ちの中味がわかってきます。これが共感です。
 「共感」というのは、以前にも書いた「あなたと相手とは全く別の存在である」ということが前提になるのです。



2010年05月27日(木)

対人援助職としての態度
 話を聴くための専門技術は、小手先のテクニックではありません。「態度とともに活かされる技術」なのです。ここまで読んで実感できましたでしょうか。あなたの相手に対する態度は、「相手を一人の人として尊重する」ことや、「相手にとって意味のある自己実現を図る」ということにつながります。これは、対人援助職が究極的にめざす価値なのです。「価値」は、「知識」や「技術」とともに、専門性を成り立たせる要素の一つになります。明日からは、対人援助職としての態度について、今まで書いてきたことをふまえ、整理していくことにします。



2010年05月26日(水)

「聴く」技術(5)・・・・・愚痴を積極的に聴く、そして忘れる
 以前書いたことの繰り返しです。
 あなたが相手との援助関係でしんどくなるのは、相手が激しい気持ちを表現されるときが多いでしょう。最初はその激しい気持ちが愚痴となって表現されます。これを積極的に聴くのです。相手は、溜まった気持ちを愚痴として小出ししています。小出しすれば溜まらない。小出しできずに溜まってくれば、やがて大爆発を起こします。大爆発を起こせば、それこそあなたの手に負えなくなるかもしれません。その前に、積極的に聴くことによって防ぎます。
 愚痴を積極的に聴くと、よけいにしんどくなると思われるかもしれません。でも聴き方によるのです。相手の愚痴は、あなたとは関係ありません。あくまでも相手の気持ちであって、あなたの気持ちではない。決してその愚痴とあなたの気持ちを関係させないことです。また、その愚痴の対象になっている人をかばわないことです。
 このことを意識して訓練すると、相手の話をすぐに忘れることができるようになります。カウンセラーであり、大学教授の東山紘久先生は、愚痴の聴き方は「避雷針」と同じと著書の中で表現されています。おもしろくて的を射た例えだと思います。避雷針は雷を避けるのではなく、雷に落ちてもらうための設備です。地面にアースされていて、建物自体には被害が及びません。これと同じなのです。あなたは、相手から愚痴を落としてもらうのです。そして、アースを通して地面に流し込みます。つまり忘れます。
 あなたが愚痴を自分の気持ちと関係させ、反論すると、あるいは、愚痴の対象になっている人をかばうと、今度はあなたが愚痴の対象になります。愚痴というよりは、あなたへの「抗議」です。そうなれば、大木に雷が落ちたように、あなたの心を破壊してしまいます。かといって、愚痴に同調すると、対象になっている人に対して、あるいは援助者としてのあなた自身の良心にうしろめたさを感じます。これもしんどいです。ですから、ただ相手が、どのような状況からどのような気持ちになっているかを聴くのです。他人のことですからすぐに忘れます。
 あなたは、「そんなに都合よく忘れることはできない」と思われるかもしれません。忘れられないということは、実は、そのことがあなたのコンプレックスに引っかかっているのです。コンプレックスとは、いろいろな気持ちの複合体で、あなたの言動を左右します。劣等感はそのうちの一つです。



2010年05月25日(火)

「聴く」技術(4)・・・・・主観的な答えを返すときは気をつける
 22日(土)に、「話すのではなく聴く」と書きました。しかし、相手からの質問には答えないといけません。
 質問の答えには、客観的な答えと主観的な答えの二種類があります。例えば、「今日は何曜日でしたっけ?」や「あの建物は何ですか?」といった質問には、知っている人なら誰が答えても同じです。これが客観的な答えです。それに対して、「このあたりにおいしいラーメン屋はありますか?」や「私はどうすればよいのでしょうか?」、あるいは「あなたはどう思いますか?」といった質問に対する答えは人によって違います。これが主観的な答えです。
 主観的な答えは、答え方によっては、相手を怒らせたり、嫌な気持ちにさせたりすることがあります。「あの店のラーメン、ちっともおいしくないじゃないか!」などと怒られます。そうすると、せっかく教えてあげたのに、あなたも嫌な気持ちになります。嫌な気持ちのあまり腹立たしくなって、「みんながおいしいと言ってるし、あなたの舌がおかしいのではないですか・・・」なんて返してしまうと、それだけで援助関係を最悪のものにしてしまいます。あなたがおいしいと思っても、相手にはおいしいとは限らないのです。このような話はいくらでもあります。ですから、「私としては、あのラーメン屋だと思います」ぐらいが適切でしょう。ここでも、あなたと相手は別の存在だということが大切になるのです。
 「私はどうすればよいのでしょうか?」に対して、あなたはどのように答えるでしょうか。「○○のようにすればいいんじゃないですか」とつい助言をしていませんか。確かに助言は有効です。ところが、相手の気持ちや置かれている状況がわかる前に助言をしては、その助言が適切ではないこともあります。あなたの経験からパッと思いついたものです。あなたにとってはそれでよかったのですが、相手にとってはよいとは限りません。ですから、まずは、「どうすればよいのかわからない」という相手の気持ちの中味を今まで説明してきた技術で聴いていきます。そうすると、ほとんどの場合、相手は当面の解決策を自分で整理することができます。
 どうしても会話の展開上、あなた自身の経験や考えを言う場合には、短く「私なら○○しますよ」と返しましょう。ここでは、「短く」ということを意識することが大切です。なぜなら、人というのは、自分の経験や考えを話しているうちに感情が盛り上がり、つい相手の気持ちを横に置いて、自分の話を相手に聞かせてしまうのです。あなたもこんな経験ありませんか。せっかく相談に行ったのに、相手の話を聞かされて帰ってきたということ。
 また、「あなたはどう思いますか?」という質問に対しては、どのように答えるのでしょうか。自分の考えを長々と説きませんか。あなたの気持ちを質問してきた相手は、実は自分の気持ちを聴いてほしいのです。人というのは、自分が興味のあること以外は質問しないものなのです。ですから、「私はこう思うけど、あなたはどう?」と答え、相手に話すことを促します。あなたが自分の気持ちを話すのは最小限にとどめます。



2010年05月24日(月)

「聴く」技術(3)・・・・・「言い換え」「感情の反映」「要約」「繰り返し」を行う
 さらに、相手の話を深く聴く技術として、「言い換え」、「感情の反映」、「要約」、「繰り返し」などがあります。
 言い換えとは、相手の話の趣旨を変えずに、違う言葉で相手に返すこと。例えば、「このことは家族にも相談できないのです」という相手の言葉に、「一人で悩んでおられるのですね」と返すような場合です。言い換えをすると、相手は、自分がどのような気持ちであるかを別の角度から再確認できます。あなたも相手の気持ちをより深く適切に理解することができます。
 感情の反映とは、相手の気持ちを表すような言葉を返すこと。例えば、「とても気分がいいのですね」、「とてもはがゆく思ってらっしゃるのですね」、「寂しい気持ちが伝わりましたよ」、「不安で仕方がないのですね」などです。相手は、気持ちに応えてもらうことで、「この人は自分をわかってくれている」、あるいは「わかろうとしてくれている」と安心感を得ます。もし、返した気持ちが違っていたとしても、「そうではなくて・・・」と、相手は改めて自分の気持ちを教えてくださいます。そうすると、相手の気持ちが正確にわかります。
 要約とは、相手の話をところどころ要約して返すこと。「つまり、○○なことがあったから△△な気持ちになったんですね」などと要約すると、相手は、「そうそう、そうなんです」と、相手の気持ちの整理を手伝うことになります。
 繰り返しとは、相手の言葉の一部や全部をそのまま繰り返すこと。「今日はとても嫌なことがあったんです」に対して、「今日はとても嫌なことがあったんですね」や「嫌なことがあったんですね」などのような返し方です。繰り返してもらうことで、相手は、自分の言ったことがあなたに伝わったことを無意識のうちに確認することができます。また、「まだこのことは言ってなかった」と、次にあなたに伝える言葉を思い浮かばせる効果もあります。さらには、繰り返しを続けているうちに、相手が、ふと自分で解決策を提示することもあります。つまり、解決策を自分で考え整理することを導くこともできるということです。意識して訓練すると、「言い換え」や「感情の反映」、「要約」を交えながら「繰り返す」といった統合した技術を使うことができるようになります。



2010年05月23日(日)

「聴く」技術(2)・・・・・上手に「うなずき」や「相づち」をする
 聴くと自然に出てくるのが、首をたてに振るうなずきや、「ふんふん」、「ええ」、「なるほどねえ」、「それで」などの相づちです。うなずきや相づちは、「あなたの話を聴いていますよ」という合図になり、相手の話を促す効果があります。うなずいたり相づちをしてもらうと話しやすいものです。逆に、それが全くなければ、「この人はちゃんと聴いてくれてるのだろうか」と不安になります。
 ただし、うなずきや相づちのタイミングを間違っては逆効果です。相手は、「この人は適当に相づちを打っているんじゃないか」と感じます。どのようなときにタイミングがおかしくなるのかというと、それは、相手の話を聴いていないときなのです。相手はすぐに察します。これがまた、援助関係がこじれる原因になります。聴いていないことには、うなずきや相づちもできないということです。
 また、相づちの内容によっては、相手は、「この人は私の気持ちを受け止めてくれない」と感じます。大切なのは、会話の流れに逆らわないこと。そして、あなた自身の気持ちを相づちとして返さないということです。あなたの気持ちを返すと、会話の流れに逆らい、会話の主人公があなたになってしまいます。「話すのではなく聴く」。話す主人公はあくまでも相手なのです。
 普段から何気なくやっているうなずきや相づちも、実は話を聴く技術。専門技術ですので、意識して訓練すれば必ず上達します。



2010年05月22日(土)

「聴く」技術(1)・・・・・「話す」のではなく「聴く」
 本来、人は、「聴く」ことよりも「話す」ことのほうが好きなのです。ときどき「話すことは苦手だ」とおっしゃる方がいます。ボクもかつて話すことはたいへん苦手でした。今振り返って考えてみると、なぜ苦手だったかがよくわかります。「うまく話さなければいけない」、「笑われたらどうしよう」、「批判されたら嫌だな」などといった気持ちがあったからです。あなたはいかがでしょうか。
 もし、そうした気持ちがなければどうでしょう。ほとんどの人はいくらでも話せるはずです。「うまく話さなくても大丈夫」、「この人なら私のことを笑わない」、「この人は私を批判しない」という安心感があれば、いくらでも話すことができます。
 相手にこうした安心感を与える有効な技術が、「話すのではなく聴く」ことなのです。相手に話を促し、あなたは聴く。また相手が話し、あなたは聴く。というパターンです。あなたが話すときは、相手の話を深めたいとき。例えば、「今おっしゃったことをもう少し詳しく聴かせてくださいませんか?」、「そのときあなたはどんな気持ちだったのですか?」などです。そうすると、相手はますます自分のことを話してくださいます。
 ところが、ここで問題になるのは、「本来、人は、聴くことよりも話すことのほうが好き」ということ。ついつい、相手の話に刺激され、自分の経験、あるいは自分の気持ちを話してしまいます。
 つい反論したくなるときもあります。でも、反論しないでよく聴いていると、相手の話がだんだん穏やかになってきます。そうすると反論しなくてもすみます。相手との関係もこじれません。相手は相手、あなたはあなた、別の存在なのです。あなたが常識はずれだと思っても、理不尽に思っても、それが相手の現実。相手の現実を聴くのです。
 考えてみてください。信頼できる人は、自分のことばかりを話す人ではありません。あなたの話をよく聴いてくれる人なのです。あなたも信頼される援助者になりましょう。そのためには、「話すのではなく聴く」ことなのです。もし、「今の自分は、そんなことはできない」ということであれば、一度、よく聴いてくれる人にいっぱいあなたの気持ちを聴いてもらってください。そうすると、聴くことの大切さを実感することができると思います。



2010年05月21日(金)

「聴く」ということ
 「聴く」、「聞く」、「訊く」、どれも人の話をキクことです。でも、すべて意味が違います。
 一般的に最もよく使うのは「聞く」かもしれません。門構えに耳、このキクは、門の中を風が吹き抜けるようなイメージ。つまり、聞こえてくるままにキクことなのです。「人の話し声が聞こえていた」、「隣の部屋から物音が聞こえる」などと使います。例えば、「今日、息子が面会に来てくれて、寒くなったからと言って、冬物をもって来てくれたんです」と、うれしそうに話す利用者さんに、「あ、そうですか。それはよかったですね」と言いながら忙しそうに通り過ぎるような、単に耳で聞く反応です。これでは、相手の表情や気持ちを確認できません。相手のうれしい気持ちを共有できていないのです。
 「訊く」は、矢継ぎ早にどんどん質問するようにキクこと。つまり、問いただすような感じです。例えば、利用者さんに、「もう起きる時間ですよ」、「ご気分はいかがですか?」、「どの服を着ましょうか?」、「そうそう、昨日息子さんは来られたんですか?」、「冬物、もって来られましたか?」と、訊問(尋問)のように訊くことです。これでは、反発や反感を招きかねません。
 対人援助の場面では、「聴く」を使います。「聴」という文字には、「耳」、横を向いていますが「目」、「心」という文字が含まれています。耳も目も心も使い、全身をアンテナにして話をキクことなのです。例えば、利用者さんが、「今日、息子が面会に来てくれて、寒くなったからと言って、冬物をもって来てくれたんです」と、うれしそうに話されると、仕事の手を止め、表情を見て、にっこりとし、「それはよかったですね。うれしかったでしょう」と、相手のうれしい気持ちを心で受け止め、心で返すというような聴き方です。このように相手の気持ちを伝え返すと、相手は改めて心の内を話してくださいます。
 音楽をキク場合も、単に聞こえてくるままに「聞く」のか、その音楽に込められた懐かしい出来事を思い出しながら心で「聴く」のか・・・このように日頃から使い分けると、対人援助場面での専門技術としての「聴く」を意識できると思います。



2010年05月20日(木)

相手に自分を語ってもらう(2)
 昨日書いたようなプロセスを踏むには多少時間がかかります。5分や10分の会話では無理でしょう。ですから、少なくとも20から30分は覚悟してください。どうしてもそんなに時間が取れないときは、別の時間に話を聴く約束をします。毎回、毎回、逃げるようにその場を立ち去っては、相手の不信感が高まるばかりです。それこそぎくしゃくした関係に陥ってしまいます。苦手な相手や、(援助者がこんなことを口にしてはいけませんが)正直いって「嫌な」相手もいます。でも、一度うまく話を聴くことができると、そうした意識はかなり軽くなります。思い切って聴いてみましょう。
 相手に自分を語ってもらうときに気をつけたいことは、「あなたと相手は全く別の存在」であることを意識しておくことです。相手の言葉は、あなたにすれば、常識はずれであったり、理不尽かもしれません。でも、あなたの気持ちはいったん横に置いておきましょう。今は、あなたとは違う相手の気持ちを聴くのです。
 例えば、理不尽なことを言われ、あなたは腹が立ったとしましょう。腹が立つと、思わず、強い口調で言い返してしまいます。穏やかであったとしても、「でもね」と否定的な言葉をつい言ってしまいます。そんなときは、別のスイッチを入れるのです。別のスイッチとは、「どうして、この人は、私が腹が立つことを言うのだろう・・・」。つまり、あなたが腹が立つことを言ってしまう相手の気持ちを相手の側から知ろうとするスイッチです。あなたが腹が立った気持ちは決して間違っていません。実際、腹が立ったのですから。同じように、相手も間違っていないのです。実際、あなたが理不尽だと思うようなことを思ってらっしゃるのですから。そう思わざるを得ない背景が必ず存在します。その背景を語ってもらうのです。
 あなたと相手は違うのです。大切なのは、あなたと違う相手の気持ちに関心をもつということ。そして、「こんなことがあったから、こんな気持ちになるのか」と相手の心のメカニズムを探ります。これを可能にするためには、「あなたと相手は全く別の存在である」ことを意識することが大切になります。



2010年05月19日(水)

相手に自分を語ってもらう
 次に、相手に自分を語ってもらいます。相手の気持ちを伝え返したら、相手は、「この人は私の気持ちをわかろうとしてくれている」と感じます。もし伝え返した気持ちが違っていたとしてもです。
 人というのは、「自分のことをわかろう」としてくれる人には、いっぱい自分の気持ちを話したくなるものです。逆に、「わかろうとしてくれない」人には、話したくありません。あなた自身の体験を思い浮かべても思い当たるところがあるのではないでしょうか。
 相手は、「この人はわかろうとしてくれている」と感じ、自分の気持ちをどんどん話します。そして、あなたは、「○○な気持ちだったんですね」、「○○なことがあったから、△△な気持ちになったんですね」などと、相手の気持ちを伝え返すことを繰り返します。そうすると、相手には、不思議なことが起こります。相手は改めて自分の気持ちに気づくのです。また、その気持ちがどこから来ているのか、今どんな状況におかれているのかに気づくのです。
 気づくということは、自分を一歩引いたところから眺めている格好になります。つまり、新しい自分が今までの自分を眺めているという格好です。相手が自分で話した言葉と、あなたが返してくれた言葉によって「気づく」ということが起こるのです。
 今までの自分を一歩引いたところから眺めていると、古い自分に対して新しい自分がアドバイスをすることができるようになります。「こんな気持ちでこんな状況なら、こうしたらいいんじゃないか」という自分自身へのアドバイスです。そうすると、何ら状況は変わっていないのに、何となく見通しがつかめて気持ちが落ち着くようになります。
 あなた自身もこのような体験があるのではないでしょうか。すごく気持ちが落ち込んでいるときに、あるいは、腹立たしいときなどに、友人に話を聴いてもらっていました。いっぱい気持ちを聴いてもらっているうちに、「ありがとう、聴いてもらってスッキリしてきた」という体験です。対人援助では、相手にこのような現象が起こるように、意図的に気持ちを伝え返し、意図的に相手に自分を語ってもらいます。その繰り返しによって、相手は次第に落ち着きを取りもどします。相手が落ち着きを取りもどすと、あなたは「話を聴いてよかった」とあなた自身の気持ちも落ち着くし、専門職としての自信を深めることにもなります。



2010年05月18日(火)

相手の気持ちを相手に伝え返す
 相手の気持ちに関心をもち想像したら、今度は、あなたが想像した気持ちを相手に穏やかに伝え返します。例えば、「○○さんがおっしゃることを聴いていると、施設に入所されたことにずいぶん不満を感じてらっしゃるような気がします」。「○○さんが食事も摂る気が起こらないのは、とてもつらい心の引っかかりがあるように思うのですが・・・」。「○○さんは、ずいぶん複雑な気持ちをもたれているようですね」などです。こうして伝え返すことは、あなたの勝手な決めつけを防ぐためにも有効です。なぜならば、違っていれば、違っていることやどのように違っているのかを相手は教えてくれるからです。
 このように、あなたが相手に気持ちを伝え返すと、相手は、どれくらいあなたがわかろうとしてくれているか、また、あなたに受け容れられているかを判断することができます。そして、あなたとどのようにかかわればよいかを考えることもできます。
 このときに気をつけたいことがあります。相手に抱いた「あなた自身の気持ち」を伝えないということです。例えば、「○○さんが、ずいぶん不満を抱いてらっしゃることはわかったのですが、そんなに強い口調で話されたら私は聴くことができません」などです。これでは、結果的にあなたの「強い口調を非難したい」気持ちだけが伝わり、相手の気持ちを伝え返したことにはなりません。それに、相手は、強い口調を責められていると感じます。「それだけ強い口調になるほど、大きな不満を抱いてらっしゃんですね」と返すのとではずいぶん相手の受け取り方が違うでしょう。
 あなたが想像した気持ちを相手に伝え返す目的は、相手とのよい援助関係を作ることにあります。ですから、あなたが相手の気持ちや状況に関心をもっていること、相手の気持ちを大切にしたいと思っていることが伝わればよいのです。適切に伝え返すことができなかったと感じるときは、素直に謝ればよい。それで修正ができます。



2010年05月17日(月)

相手の気持ちを想像する
 無意識のつながりを意識したら、次に、相手の気持ちに関心をもってみます。相手の気持ちに関心をもつと、何かが見えてきます。
 援助を必要としている相手は、基本的に好き好んであなたの目の前にいるわけではありません。多くの場合、みじめな気持ち、恥ずかしい気持ち、反発したい気持ち、どうしたらよいのかわからない気持ちなどをもっておられます。大き過ぎる期待をもっておられ、今までの援助に不満を抱いてらっしゃることもあります。誰にも相談できず、一人で抱え込んでらっしゃることもあります。こうした気持ちが、言葉や態度、表情やしぐさなど、さまざまな形となって現れます。そのさまざまな形から「ひょっとしたら・・・」と想像してみるのです。
 こうした気持ちに関心をもつときに気をつけたいのは、ある一つの見方や観察にとらわれないということです。さまざまな角度から相手の気持ちに関心を向けます。例えば、「うつむいたまま顔を上げない態度」を単に「緊張している」と捉えるのではないということです。ひょっとしたら「感情を読み取られたくない」のかもしれないし、「あなたを警戒している」のかもしれません。また、「何を話してよいかわからない」のかもしれません。初めて会う相手であれば、あなたは相手のことを全く知らないわけですから「普段の姿勢」なのかもしれません。はじめは一つの見方から想像してもかまいませんが、直後に違う見方もしてみます。また、相手の言葉や態度、表情やしぐさ、もっと言えば、歩き方、声の調子、服装など、あらゆる相手の状況に関心を向けます。
 もう一つ気をつけたいのは、「きっとこの人はこんな気持ちに違いない」と即座に決めつけないということです。相手の気持ちは、多くの場合複雑です。渡辺さんのように、「もう足が動かないのだ」と自分に言い聞かす気持ちがあったとしても、「いや絶対に動くようになる」と思いたいなど、矛盾した相反する気持ちを同時にもっていても不思議ではありません。相反する気持ちを同時にもっていると、どうしたらよいかがわからなくなり、身の置き場がなくなります。これを葛藤といいます。葛藤している気持ちはとても複雑です。ですから、安易に決めつけないことが大切になります。あなただって、他人が自分の気持ちを決めつけたら、嫌な思いをするでしょう。



2010年05月16日(日)

無意識のつながりを意識する
 無意識のつながり、すなわち「関係性」は、人と人との関係の土台となります。人と人との関係にはいろいろあります。例えば、あなたと家族の関係やあなたと友人の関係は、自然発生的にできる関係です。それに対して、あなたと利用者さんや患者さんとの関係は、「援助という目的をもって意図的に作る関係」です。この関係を「専門的援助関係」、略して「援助関係」といいます。
 家族や友人との関係の場合、成り立ちが自然発生的ですから、日常的に関係性を意識することはほとんどないでしょう。あまりにも日常的すぎて意識しないことが習慣になっています。ですから「無意識のつながり」なのです。
 援助関係の場合は、援助という目的がはっきりしています。ここで大切なのは、援助という目的を達成するための第一段階として、関係性を意識してみることです。相手との無意識のつながりがどのような状況になっているのか。つまり、あなたと相手の間にはどのような空気があって、どのような気持ちが行き来しているのかを意識してみるということです。
 では、なぜ意識してみることが大切なのでしょうか。例えば、利用者さんに、契約書にサインをし印鑑を押してもらう場面を想像してみましょう。サインをし印鑑を押してもらえば、制度上は手続き完了です。でも、本当に納得されて印鑑を押されたかどうかは、手続きという事務的なものとは全く別の次元の問題なのです。もし、印鑑を押さざるを得ない空気がそこに漂っていればどうでしょう。その空気は、あなたやその場の状況が作り出す威圧感なのです。利用者さんは、納得していなくても印鑑を押されます。あなたは、次の仕事もあるし、早くサインをし印鑑を押してほしい。躊躇されている相手の様子を見て、焦りやいらだちがあります。「ここに印鑑を押してくれなければ、サービスを提供できないのよ。そうなればあなたは困るでしょ」、あなたは決してそんなことを口には出しません。しかし、相手はあなたの雰囲気から、そのように言われているように感じます。相手は、サインをし印鑑を押したものの、納得できないまま、あなたに対して嫌な印象をもってしまう。こうして、あなたと相手のぎくしゃくした関係がスタートするのです。ぎくしゃくするとお互いしんどくなります。
 これを防ぐためには、あなたと相手との間にどのような空気があって、どのような気持ちが行き来しているのかを意識してみることです。そして、不都合なつながりがあるとわかった場合は修正することが大切になります。その修正は、その場で即座にできれば理想的ですが、(例外ももちろんありますが)ほとんどの場合は、少々あとになっても大丈夫です。ですから、修正のために、あなたの態勢を整えてからでもかまいません。
 こうして無意識のつながりを意識してみることは、家族や友人との自然発生的な関係がこじれたときにも役に立ちます。



2010年05月15日(土)

毎月15日もノーお勉強デー・・・ちょっとブレイク(^^)
 15年ほど前からメダカを飼っていますが、今年もたくさんの赤ちゃんメダカが生まれました。というか、毎日どんどんと生まれています。赤ちゃんメダカの水槽はウジョウジョ。4月の初旬に生まれたものは1.5センチ、生まれたてのは5ミリぐらいでしょうか・・・みんなが育つわけではないけれど、できるだけいっぱい育ってほしいものです。
 腹びれが四角く大きいのがオス、三角なのがメスなんです。毎日、親メダカの水槽を何回も眺め、卵をもっていたら、赤ちゃんの水槽の中に設置してある産卵箱に移します。そして卵を産み終わったら、親の水槽にもどします。決して暇な毎日を過ごしているわけではありませんが、これが楽しみの1つ。
 いっぱい育ったら、どなたかもらってくださいね。



2010年05月14日(金)

無意識のつながり
  「支え合い」は、あなたと相手のつながりから生まれる感覚的なものかもしれません。この「つながり」こそが、あなたと相手の関係を居心地のよいものにするか、悪いものにするかの鍵を握ります。「支え合い」が対人援助の原点であるならば、「つながり」は本質だといえるでしょう。
 次の二つの気持ちを比較してください。
 「人は一人では生きられない」、「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」。
 この二つの気持ちは全く意味が違います。「人は一人では生きられない」というのは、「誰かと支え合って生きている」、あるいは「誰かに助けてもらって生きている」という意味になります。一方、「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」というのは、「誰も助けてくれない。一人で生きていかないとダメなんだ」という意味になります。
 ところが、同じ一人の人が、この全く違うどちらの気持ちにもなるのです。あるときには「人は一人では生きられない」と感じるし、あるときには「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」と感じる。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。
 答えはそんなに難しいことではありません。結局、人は一人では生きていないからなのです。望む望まないにかかわらず、人に囲まれて生きているからなのです。周りにいる人たちからいろいろな影響を受けて、あるときには「人は一人では生きられない」と感じるし、あるときには「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」と感じるのです。
 例えば(こんなことは実際あり得ませんが)、無人島に、もの心がつく前から一人で暮らしている人がいたとしましょう。今まで人と出会ったことがありません。その人が、「人は一人では生きられない」と感じることがあるでしょうか。「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」と感じることがあるでしょうか。今まで人と出会ったことがない人が、そのような気持ちになるはずがないのです。 
 まだわかりにくいかもしれませんが、次の例でよくわかると思います。あなたは学生時代に大好きな異性にふられたとしましょう。あなたは悲しかった。つらかった。その気持ちをまぎらそうとして、一人でにぎやかな街に出かけていきました。ところが街に出てみると、たくさんのカップルたちが楽しそうに歩いていました。あなたは、カップルたちを見てどのような気持ちになったでしょうか。よけいに悲しくなりました。よけいにつらくなりました。「どうして私だけが・・・」なんて気持ちになった人が多いことでしょう。「お前たちもそのうち別れることになる」という無言の言葉をカップルたちにぶつけた人もいるかもしれません。そのカップルたちは、あなたに対して何もしていないのです。あなたが勝手にそうした気持ちになったのです。
 つまり、あなたと周りの人たちはつながっているのです。望みもしていないのに、意識もしていないのにです。周りの人たちから何らかの影響を受けて、あるときにはよけいに楽しくなるし、うれしくなる。あるときにはよけいに悲しくなるし、つらくなる。こうした人と人との無意識のつながりを「関係性」といいます。つまり、「関係性」が対人援助の本質なのです。
 関係性は、あまりにも日常的すぎて、意識に登らない、あるいは、忘れ去られていることが多いかもしれません。しかし、まぎれもなく関係性は存在するのです。「人は一人では生きられない」と感じたり、「人間なんて結局一人ぼっちなんだ」と感じるということは、人が関係性の上に生きていることの証なのです。



2010年05月13日(木)

共に生き続ける
 一昨日書いた「さだまさし」さんの話を聴いて1ヶ月ほどたったときでした。ある機関誌をパラパラとめくっていると、「共に生き続ける」というタイトルの記事を見つけました。以下、少々長いですが引用しておきます。

 わかりやすそうな表題ながら、たいへんな難題である。こういう場合は問題を裏返してみるのは一つの術である。「共に生き続ける」をひっくり返すと、「自分だけ生き残ればいい」になるだろうか。「他の人は死んでしまってもかまわない。自分だけ生き残ればいい」。
 そこで、この反対のことのために努力するのが「共に生き続ける」という行為なのだ、という答えがでてきて、なんとなくわかったようなつもりになる。
 ところが、「では、そのための努力」とは一体どういう心に支えられ、どんな形で実践されていくものなのだろうか、と再び問い返されると行き詰まってしまう。
 知恵を出し合ったり、力を寄せ合ったり、助け合ったり、世話し合ったり、というだけのことではなくて、もっと根の深いところから考えねばならないことであろう。その「根の深いところ」を考えこもうとすると、私はいつも、私の8人きょうだいのうちの2番目の姉の生きざまを思い浮かべる。
 60年前、敗戦の色が濃くなってきた混乱の中を中国大陸から引き揚げてきた姉は、戦後の生活苦の中で3人の男の子を産んだ。上の2人はたくましく育ったが、3番目の子は生まれたときから“植物人間“状態であった。無表情でじっとしていて声も出さない。そのまま半年、1年、2年、3年、5年、10年、そうして20年。姉はその子を奥の座敷に寝かせて店をやっていた。その子は布団の中だけでの明け暮れで大きくなっていき、ひげも生えるようになった。姉はひげを剃ってやる。そんな生活の果てにその子は20歳で一生を終えた。
 亡くなったとき、私は海外出張中だったため、帰国後に葬儀のときの模様を聞いた。弔問に訪れた人たちに姉は涙を1つこぼさずに対応していたところ、弔問客の一人が言った。「ものは考えようだよ。苦労の種の厄介払いができたと思えばいいじゃないか」。
 心ないその一言で、姉は初めて大声を上げて泣き、叫ぶように言った。「この子がいたから私は頑張ってこられたんじゃないの」。この子がいなかったら苦しい生活を頑張ってはこられなかった。幾度この子と一緒に人間をやめようと思いつめたかもしれない。けれど、この子は縁あって私のところに生まれてきた。私はこの子と生き続けようとし、この子のおかげで私は生きてこられた。と言って泣いた。
 帰国してこの話を聞いた私は感極まって言った。「姉さん、えらい!」。以来「共に生き続ける」という課題を考えるとき、この「母と子」の生かし合った心と形を思い合わせずにはいられない。人が人を支えるのは、一方的に世話をしたり面倒をみたりしているだけのものではない。世話をしている、面倒をみていると思われる側が、その自分の行為によって相手から力を得るとともに自分自身が支えられている。こういう関係が成り立つところにこそ「共に生き続ける」という心と、その心による実践の原点があるのではないか。

出典 足立原貫「共に生き続ける」日本介護福祉士養成施設協会会報『かいようきょう』第25号(2004年10月27日)。

 この記事を読んで、私は、さだまさしさんの話の続きのような気がしました。「支え合いこそが対人援助の原点なのだ」。そう確信しました。お互いに支え合い、お互いに存在意義を感じる関係、それが援助する人とされる人の関係なのです。
 そう思うと、私のみならずあなたにも思い当たるところはたくさんあるのではないでしょうか。「一生懸命かかわっている利用者さんや患者さん、生徒さんに支えられているなあ」と感じることです。「この人の担当をしてよかった」、「この人がいるからこそ、私が専門職として成り立っている」と感じることです。そう感じることができると、仕事でつらいことがあっても乗り切ることができます。



2010年05月12日(水)

「ブログで答えてえー」とご質問をいただきました
 ちょっと横道にそれますが、「ブログででもご意見をいただければ・・・」とご質問をいただいたのでお答えします。
 「登録ヘルパーの経験のみがあり、ずっと主婦だった新人。頭が固く融通がきかない。上司に相談しても『車のブレーキみたいにもうちょっと遊びがあればねえ』というのみ。制度や仕事上のルールは教えればよいが、利用者に対する考え方、話し方をどう理解してもらったらよいか・・・・イライラが募ってくるし、余計なことで責めてしまいそう。『人の気持ちや考え方はいろいろある』ということを毎日話しているが、どうすればそれが伝わるか?」というご質問でした。

 あなたが「理解しろよ!」って思ってしまう方っておられますよね。そう思ったら、ちょっと立ち止まって、「私は、相手を理解しようとしてるだろうか・・・」と考えてみてください。「相手は、なぜ、私がイライラするようなことを言うのだろうか?」と考えてみるのです。あなたから見たら、相手は「頭が固い」かもしれませんが、相手から見たら、あなたは「なんと優柔不断な人」なのかもしれません。あなたの言うとおり、「人の気持ちや考え方はいろいろある」のです。ですから、あなたとは違う相手を理解しようとしてみてください。相手の考え方のメカニズムがわかれば、あなたの気持ちも落ち着くと思いますよ。



2010年05月11日(火)

人の人生に寄り添うということ
  「人の人生に寄り添うということ」。誰もが言いそうな言葉ですが、これは、ある人の話にボクが勝手につけたタイトルなのです。ボクの中では特別な意味をもっています。なぜなら、ボクに対人援助の原点を教えてくれた話だったからです。
 ある人とは、「さだまさし」さん。2004年10月、私は初めてさだまさしさんのコンサートに行きました。さださんはコンサートの中でたくさんの話をしてくださいました。その一節にタイトルをつけると「人の人生に寄り添うということ」になりました。正確ではありませんが、だいたい次のような内容でした。
 「あるおばあさんがいました。おばあさんは小柄で弱々しく、シルバーカーを押しながらヨタヨタ歩いていました。細い道の真ん中をゆっくりゆっくり歩いていました。こちらは急いでいるのに抜かすに抜かせない。イライラしてきます。イライラすると、おばあさんに対して、『どっちかに寄ってくれたらいいのに、このババアめ!』と思います。『ババア』なんていう言い方をしてはいけません。でもそう思うときもあります。でもね・・・・そう思うときもあるけれども、このおばあさんの人生に寄り添ってみたらどうでしょう。このおばあさんは、望まれて生まれてこられたのだろうか。おばあさんの時代は、男の子が生まれると家の継ぎ手として働き手として喜ばれた。でも女の子が生まれると、もうこれで終わりという意味の名前、「トメ」や「スエ」なんていう名前が付けられた。そのように言う人もいます。このおばあさんは、望まれて生まれてこられたのだろうか。このおばあさんは、どんな子ども時代を過ごしてこられたのだろうか。このおばあさんは、素敵な恋をしたのだろうか。このおばあさんは、戦争で大切ものを失ってはいないのだろうか。このおばあさんは幸せな結婚をしたのだろうか。このおばあさんは、今も旦那さんや子どもさんやお孫さんに囲まれて幸せに暮らしてらっしゃるのだろうか・・・こうして、おばあさんの人生に寄り添ってみると、『このおばあさんにとって人生というのは、本当に尊いものなんだなあ』と思えてくる。『このおばあさんが経験されてきたことは、本当にかけがいのないことだったんだなあ』と思えてくる。『老婆は一日にしてならず(笑)』。そう考えると『人間にとって人生というのは、尊いものなんだ』と思えてくる。そう考えると『自分の人生を大切にしなければいけない』と思えるようになってくる。つまり、おばあさんの人生に寄り添うと『自分の人生を大切にしないといけない』と思えるということなのです。」
 ボクは、この話を聴いて、「これこそが対人援助の原点ではないのか」と思いました。



2010年05月10日(月)

対人援助の原点
 対人援助職がストレスを溜め込み、燃え尽きるのを防ぐ手立てとして、「専門性を高める」という観点から考えていきたいと思います。
 でもその前に、「対人援助」そのものについて整理していくことにします。そもそも対人援助とはどういうことなのでしょうか。まず、対人援助の「原点」について考えていくことにします。
 あなたは、対人援助を仕事として行っています。そこには援助する人とされる人という二種類の人が存在します。あなたは援助する人です。では、援助するあなたは、いつでも援助する人なのでしょうか。援助される相手は、いつでも援助される人なのでしょうか。
 結論を先に言いましょう。対人援助というのは、援助する人とされる人の「支え合い」。それが原点なのです。では、なぜ「支え合い」なのでしょうか。



2010年05月09日(日)

職人技と専門技術
  少々荒っぽい説明ですので、誤解を招くかもしれませんが、「職人技」と「専門技術」の違いを説明してみましょう。「職人技」とは、親方の背中を見ながら、自分自身の工夫も加え、長い年月をかけて経験を通して身につけるもの。「専門技術」とは、共通の言語としての理論を知識として身につけ、経験を通して技術に落とし込んでいくもの。
 経験を通してという点では同じなのですが、専門技術には、理論という世界共通の言語があるという点で職人技とは違います。その言語すなわち理論を身につけておくと、他の専門職との区別ができます。また、他人に自分の仕事の専門性を説明しやすくなります。例えば、他の業界の人たちに対しても、他の専門職に対しても、後輩や新人に対してもです。
 職人技にも理論があるという反論があるかもしれません。でも、職人技には、自分なりの工夫がかなり加わり、他人にはマネのできないようなすばらしい技を編み出します。その部分が大きいのです。一方、専門技術にも自分なりの工夫があるでしょう。ですが、あくまでも理論に裏付けされたものなのです。その理論というのは、多くの研究者たちが実践を積み重ね、構築したものです。理論が先にあったわけではありません。ですから、理論のどの部分をとっても「なるほど」と思えるのです。研究者たちがせっかく構築してくれた理論ですから、使わない手はありません。
 少々荒っぽく極端な説明になったかもしれませんが、要するに、対人援助職は専門技術を身につけるために、理論を勉強してほしいということなのです。我流でもうまくいく場合はもちろんあります。我流を極め、すばらしい技を身につけている方もおられるかもしれません。でも、そんな方は希です。ほとんどの場合、我流ですと、そこそこまでは上達しますが、やがて頭を打ち、それ以上は上達しなくなります。また、得手不得手を作ります。苦手だからといって、相手を選ぶことができない対人援助職が得手不得手を作ると、対人援助そのものが成り立ちません。ですから、対人援助職は、理論を専門知識として身につけ、専門技術を磨いていきたいものです。



2010年05月08日(土)

意気込みすぎない
 対人援助職に就いている人たちには、経済的な成功よりも人を相手にする喜びを感じ、「人の役に立ちたい」と熱い思いをもっている方が多いといわれています。人の援助を行う仕事ですから、今の世の中の状況を考えると、ますます必要とされる仕事ですし、当然「よいことをする」仕事なのです。
 ですが、この仕事だけが「人の役に立つ」仕事ではありません。道路を造る人たちだって、米や野菜を作る農家の人たちだって、気持ちよく接客してくれるお店やホテルの従業員だって、便利な電化製品を開発してくれる研究者だって、夢や希望を与えてくれるスポーツ選手だって、みんな人の役に立っているのです。
 「人の役に立ちたい」ことは、りっぱな仕事の動機付けになります。ですから、そうした思いがないと困ります。でも、あまりに「人の役に立つ」ことにこだわると、「人の役に立ちたい」気持ちを満たそうとするあまり、それこそ感情が先に立ち、見えるものも見えなくなってしまうかもしれません。
 対人援助職は人と関わる専門職。世界共通の言語としての「理論」に裏付けされた専門知識や専門技術をもっているのです。ですから、今一度、その専門性を思い出してみませんか。



2010年05月07日(金)

燃え尽き症候群(2)
 燃え尽きの症状が進んでくると、仕事に行くのがおっくうになってきます。でも、仕事に責任を強く感じているものですから、しんどい自分にむち打って、頑張って仕事に出かけます。ところが、昨日の症状の続きのようなものですが、「患者さんや利用者さんにつらく当たってしまう」、「後輩が何もいえないように理屈ばかりをこねてしまう」、「大事なことを放っておいて、どうでもいいことばかりを先にし、結局大事なことができなくなってしまう」などの症状が現れてきます。このあたりまでは、ほとんどすべての人が経験したことがあるでしょう。
 さらに症状が進めば、本当に仕事に行くことができなくなってしまいます。朝起きると、「頭がガンガンする」、「おなかが痛くて仕方がない」、「吐き気がする」などの症状に襲われるのです。「これはダメだ」と思って、職場に休む連絡を入れます。ところが、電話を切って30分もすれば症状が治まっているのです。すると、「症状が治まったのに休んでしまっている・・・」と自分を責めます。つまり、仕事を休んでも気持ちが休まらないのです。
 さらに症状が進めば、仕事を辞めることを考えます。それでも、まだ多少元気であれば、「とりあえず休暇をとって様子をみよう」と辞めることを先送りすることができる。あるいは、辞めるための前向きな理由を見つけることができます。例えば、「大学院に行くために辞めよう」、「専門学校に行って新しい資格を取ろう」、「結婚を契機に辞めよう」、「出産を契機に辞めよう」などです。
 最も重症なのが、「とにかく目の前にあるしんどさから逃れたい」という一心で中途半端な時期にもかかわらず、突然辞表を提出する。もちろん次の仕事の当てなどはありません。
 次のような場合もあります。さまざまな燃え尽きの症状を正当化するのです。例えば、「患者さんや利用者さんにつらく当たってしまう」などは、対人援助職としての倫理に反します。ですから、そのような行為を「やむを得ない」、「当然のことだ」、「自分が悪いのではない」などと防衛機制を働かせ正当化します。そうしないことには、対人援助職として大きな葛藤を抱えることになるからです。
 そして、正当化していることから、上司や同僚によい評価をされない、自分なりに努力をしているのに報われないということになると、「どうなってもよい」と無責任な気持ちを抱くようになります。さらには、達成感を感じなくなり、仕事への動機付けが低くなる。その結果として、仕事を休みがちになったり、辞めることにつながったりするのです。



2010年05月06日(木)

燃え尽き症候群
 マスラックによると、燃え尽き症候群(バーンアウト)とは、「極度の身体疲労と感情の枯渇を示す症状」とされています。少し詳しく説明すると、人は、過剰なストレスを抱えると、その負担を支えきれず、耐えきれず、対処できなくなります。そして、張りつめていた緊張が一気にゆるみ、意欲や動機付けが急速に衰え、さまざまな心や体の症状となって現れます。この燃え尽き症候群の定義や説明をみると、たどり着いた結果を意味していますが、そこにたどり着くまでには次のような経過をたどります。
 初期の症状としては、「頭が重い」、「体がだるい」など風邪にもよく似た身体症状を示すことが多くあります。しかし、単なる体の症状だけではなく、「この頃、何となく疲れているなあ」など心の疲れも感じます。もう少し具体的な症状を示すと、

 □ついイライラして、誰かを攻撃してしまう
 □「大丈夫?」とか「疲れているんじゃない?」と声をかけられるとムッとする 
 □やらなければならないことを先延ばしにしがちである
 □一生懸命やっても「何もかもうまくいかない」と感じる
 □自分のやったことに自信がもてない
 □仕事のことを考えるとため息が出る
 □疲れているのにぐっすり眠れない
 □仕事のことが頭から離れずに、夜中に何度も起きてしまう
 □以前は少し休めば体調が回復したのに、最近は回復しない
 □いつも何となく疲れを感じている
 □体重が急に減った。または増えた。
 □ボーッとして考えがまとまらない
 □気がつくと口をつぐんでいる
 □「なぜ自分だけ一生懸命仕事をしなければならないのか」と不満に思う
 □人と関わるのがとても面倒くさい
 □まわりの人は鈍感、のんき、真剣さが足りないように思う
 □お酒の量が増えた
 □大きな音や声に思わずびくっとする
 □何かにつけ自分が責められていると感じる
 □孤立感を強く感じる

出典 水澤都加佐『仕事で燃えつきないために 対人援助のメンタルヘルスケア』大月書店、23頁、2007年。(一部改変)

 これらの20項目のうち5項目以上にチェックが入れば、燃え尽きの兆候があると疑ってもよいかもしれません。



2010年05月05日(水)

感情労働としての対人援助の仕事
 対人援助の仕事は「感情労働」だといえます。もちろん肉体労働や頭脳労働の側面もありますが、大きく分類すると肉体労働や頭脳労働も含む感情労働だといえるでしょう。さまざまな感情を示す相手の矢面に立ち、チームや組織の中にいるいろいろな人たちと一緒に取り組みます。家族関係の問題、介護の問題、子育ての問題、思春期の心の問題などによって、葛藤や不安をむき出しにする相手と毎日向き合っていると、そして、それらの問題に対して、「自分を理解してくれない」と感じさせるいろいろな人たちと一緒に取り組んでいると、感情的に疲弊してしまいます。
 また、対人援助職といえども生身の人間ですから、いつも精神的によい状態であるとは限りません。何らかの事情があって、ときには精神的に不安定であったり、つらい気持ちを抱えたまま仕事をせざるを得ないこともあります。
 しかし一方で、今後ますます需要が高まるたいへんやりがいのある仕事でもあるし、この仕事に就きたいと思ったときの気持ちを思い出し、必死に感情コントロールをしながら仕事に取り組みます。そのままうまく自分自身がすでにもち合わせている「感情力」で乗り切ることができればそれでいいのですが、多くの場合は、新たなストレスを生み出すなど悪循環を繰り返すことになるのです。
 それだけ対人援助の仕事は、ストレスを感じやすい仕事だといえます。ですから、何らかの方策を考える必要があるのです。



2010年05月04日(火)

よいストレスと悪いストレス
 ストレスとは、ストレス学説を唱えたセリエによると、「何らかの外力によって、心理的に身体的にゆがみが生じた状態」とされています。人は誰でも何らかの外圧が加わると、心や体が防衛的に反応します。そのプロセスがストレスなのです。
 ストレスというとマイナスのイメージがつきまとっていますが、そうとは限りません。よく考えてみると、私たちの身近なところにいくらでも存在するもので、マイナスばかりではないのです。
 日常生活で予測できない出来事が生じたとき、例えば、路地から子どもが飛び出してきたときなど、即座に神経を研ぎ澄ませ、緊張し、その場を乗り切ります。逆にいうと、緊張が起きなければその場を乗り切ることができないということです。対人援助を考えても日常的に緊張する場面はいくらでもあります。患者さんや利用者さんとの新しい関係が始まるとき、また、困難な場面に遭遇したとき、誰もが緊張します。緊張することによって、相手を理解しようとする力や感受性が高まり、専門知識や技術、これまでの経験で得たものを動員して、相手と関わることができるようになるのです。
 言い換えれば、人間社会がさまざまな社会関係から成り立っている以上、人が生きていく上でストレスは欠かせないものといえます。つまり、適度なストレスが必要だということです。適度なストレスは、日々のあらゆる活動の原動力となり、新しいことに挑戦するときや困難に直面したときに、エネルギーをもたらしてくれるものなのです。
 ですから、ストレスは必ずしも悪いものではありません。問題になるのは、それが過剰にのしかかってくるときなのです。ストレスが過剰にのしかかってくると、人は自分自身を守りきれず、心や体のいろいろな症状に苦しむことになります。そして、患者さんや利用者さんとの関係、職場の人間関係、業務の遂行、場合によっては私生活にも支障をきたすことになります。その支障がさらなるストレスの要因となり、悪循環を繰り返すのです。
 ですから、ストレスをなくすことではなく、過剰なストレスを適度なストレスに変えていくことを考えることが大切なのです。



2010年05月03日(月)

チームや組織で仕事をすることから生じるストレス
 対人援助は、必ずチームや組織で行います。つまりいろいろな人と一緒に仕事をしています。上司もいれば部下もいる。同僚もいれば他の専門職もいる。その人たちとの間に摩擦が生じ、それがストレスとなります。
 上司や部下とは立場が違うし、他の専門職は、今までしてきた勉強が違う。同僚といえども、抱えている人生が違うから価値観や性格が違う。
 その違いが問題なんですよね。いろいろな違いから、同じものを見ても、とらえ方が違って、衝突が起こる。よく考えれば、違いがあるのは当たり前のことなんですが、一緒に仕事をしているとお互いに腹が立つ。そんな経験ありませんか?
 昨日書いた、相手が人であるというところからくるストレスと、チームや組織のいろいろな人との関係から生じるストレスは、大きく分けると、対人援助職の2大ストレスといえるのではないでしょうか。
 この2種類のストレスが複雑にからまって、大きなストレスになるのです。



2010年05月02日(日)

相手が人であるところから生じるストレス
 このホームページの最も大きなテーマでもあるのですが、「対人援助職のストレスを何とかしたい・・・」と常々考えています。
 対人援助は、その名のとおり、「人」相手の仕事であるがゆえ、ストレスを感じやすい。相手が物や機械であれば感じないようなストレスを感じます。
 相手が物や機械であれば、「このボタンを押したらこうなる」、「ここまで組み立てたら次はこの部品をはめこんだらいい」、工程もはっきりしているし、結果も見えている。工夫すれば成果も現れやすい。でも、あなたの仕事は、相手が人なので、一生懸命やっているのに逆効果ということもあります。
 例えば、Aさんとはいつもうまくいく。でも、同じようにかかわってもBさんとは全くうまくいかない。同じAさんでも、さっきまでうまくいっていたのに、突然関係がおかしくなり出した。こんなことって、対人援助の仕事ではいくらでもありますよね。
 「あの人とは馬が合わない」と思っても、援助者は相手を選ぶことができない。苦手意識をもちながらかかわり、今日もうまくいかなかった。でも明日もかかわらなければいけない。だんだんしんどくなっていきます。
 また、相手が物や機械であれば、何も言いませんが、人はいろいろな言葉をしゃべってくれます。あなたを褒めてくれるときや感謝してくれるときはいいけれども、不満をぶつけてきたり、罵声を浴びせられたり、泣きつかれたり、ときには「死ぬ」と脅かされたり・・・。不満や罵声が、あなたにとって理不尽きわまりないときもあります。あなたは、プロの援助者ですから、倫理観が邪魔してなかなか反撃できない。そんなとき、気持ちのもって行き場がないですよね。
 対人援助の仕事は、とてもやりがいのある仕事。そんなことはわかっているけれども、相手との関係がしんどくて仕方がない。そんな思いを引きずりながら仕事をしているときってあるのではないでしょうか。



2010年05月01日(土)

毎月1日はノーお勉強デー!・・・・ちょっとブレイク
 上海万博が開幕しました。当地奈良では、今、平城遷都1300年祭、春フェアが行われています。おびただしい数の人と車が奈良に流れ込み、スポーツクラブに行くにも、ラーメンを食べに行くにも、ちょっとオークワに買い物に行くにも、大渋滞。ボクの暮らしをおびやかしています。
 でも、考えてみたら、奈良はすごいところ。歴史的文化遺産の宝庫。どこを掘っても何かが出てきます。だからむやみやたらに掘ってはいけません。
 ボクが生まれ育った桜井だって、卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳があるし、ボクの活動範囲だった不思議な二等辺三角形をなす大和三山、実在しなかったかもしれませんが神武天皇陵、西の京には薬師寺、唐招提寺・・・・数え上げればきりがありませんが、すべて身近に慣れ親しんだところです。恵まれたところで育ち暮らしてきたものだと実感しています。
 遠方の方もどうぞ奈良にお運びください。今年の奈良は熱い。ただし、ボクの暮らしをおびやかさない程度にお願いします。 



2010年04月30日(金)

自己覚知(6)
 自分の人生を振り返ってしんどくなるときや、価値観の違いによって、相手をどうしても受け容れることができなくなるとき、つまり、自己覚知しようとしてもなかなかできないときは、誰かの助けが必要になります。自分一人で解決することはかなり難しいように思います。
 誰かに助けてもらう1つの方策として、「スーパービジョン」があります。スーパービジョンというのは、先輩や上司に育ててもらうプロセスのこと。その際、支えてもらうことが大切になります。
 また、上下関係のない仲間同士でスーパービジョンが行われることもあります。つまり、仲間同士で支え合い高め合うのです。これをピアスーパービジョンといいます。
 スーパービジョンについては、また改めて書き綴りたいと思います。



2010年04月29日(木)

自己覚知(5)
 価値観は、人によって違います。お父さんやお母さんがどのようにしつけてくださったのか。どのような友だちと出会ってきたのか。どのような先生と出会ってきたのか。どんな地域で暮らしてきたのか。どのようなグループに属してきたのか。どんな勉強をしてきたのか。どんな仕事をしてきたのか。どんな立場を経験してきたのか・・・そんなことによって、皆、価値観が違います。
 それぞれ違う価値観が、それぞれの人の目に色メガネとなって覆いかぶさっているのです。ある人は青いメガネをかけているし、ある人は赤いメガネをかけている。青いメガネの人が黄色い事実を見ると青みがかった黄色に見える。赤いメガネの人が黄色い事実を見ると赤みがかった黄色に見える。つまり、かけているメガネの色によって見え方が違うのです。これは価値観の違い、もっといえば抱えている人生の違いなのです。
 人は、往々にして自分の見え方が正しいと思ってしまう。でも、実際人によって見え方が違う。価値観の違う人と一緒に仕事をするときには、対決するか認め合うか、どちらかしかありません。
 どちらのほうがお互いに楽なのか・・・・対決したらお互いしんどいです。認め合う方がはるかに楽ですよね。


2010年04月28日(水)

自己覚知(4)
 またこんな例もあります。ボクが大学教員時代に経験した例です。ある学生が実習に行きました。児童養護施設でした。巡回指導に行くと、ボクの顔を見たとたん、涙をポロポロ流して「先生、もうだめです。実習を続けられません・・・」。どうしたのか聴くと、担当の職員さんに毎日のように怒られるというのです。「もっと積極的に子どもたちの輪の中に入って行きなさい。もっと職員に積極的に質問しなさい」。
 しかし、その学生の実習計画書を見ると、「私は積極的に子どもたちにかかわり、積極的に職員さんに質問をしたい」と書いてあります。
 実は、その学生の人生のテーマが「積極的に・・・」だったのです。小中高校の担任の先生から、いつも「積極的に・・・」と怒られていました。三者懇談のたびに親を前にして怒られました。まるでボクのようです。積極的にしなければいけないことは、痛いほどよくわかっています。だから、その学生なりに精一杯積極的に取り組んでいたのです。でもできない。他の大学から来ている実習生は、見るからに積極的です。「ああ私はあんなふうにできない」とドカーンと落ち込んだのです。
 嫌というほど情けない自分と向き合ってしまいました。ボクは、その学生に言いました。「対人援助の仕事は、どうしても自分と向き合ってしまう仕事。自分と向き合って自分を知らないことには、自分とは違う相手を理解することなんかできない。○○さんは、つらい経験をしているけど、きちんと自分と向き合ってる。すごくよい実習をしてるよ」。実習終了後も時間をかけてフォローアップしました。


2010年04月27日(火)

自己覚知(3)
 自己覚知をするために自分の人生を振り返ると、しんどくなってしまうことがあります。嫌な自分、情けない自分を見つけてしまうからです。
 例えば、よく大声で怒鳴るAさんが苦手で、どうしても関係がうまく作れない。他の職員は平気でかかわっているのに私はどうしてもできない・・・「なぜ私は、Aさんがこんなに苦手なのだろうか」と自分を振り返ると、気づくことがありました。「10年前に亡くなった私のお父さんがAさんとよく似ている。お父さんによく怒鳴られた。叩かれた。いつもお父さんに対してビクビクしていた。いつもお父さんの顔色をうかがっていた。いつもお父さんがどうしたら気に入ってくれるか、そんなことばかりを考えていた」。実は、お父さんとの関係をAさんとの間に再現してしまっているのです。そんなことに気づくと愕然とします。「私はまだお父さんとの関係を克服できていない・・・」。そして、自分を責める。あるいは、亡くなったお父さんを責める。あるいは、いつも傍らにいたのに何もしてくれなかったお母さんを責める。これを「心の痛み」とボクは呼んでいます。こうした心の痛みを感じ、しんどくなってしまうのです。
 自己覚知をするためには、こうした心の痛みを何らかの形で克服していく必要があります。対人援助職にとって自己覚知は大切なのに、自己覚知によってしんどくなることがある。この克服は、一人では難しいかもしれません。誰かに助けてもらわないといけないということです。つまり、「援助する人は援助されなければならない」ということです。 


2010年04月26日(月)

自己覚知(2)
 自己覚知はなぜ大切なのでしょうか・・・?対人援助職であるあなたは、いつも援助の対象である「人」と向き合っています。また、組織やチームのいろいろな「人」と一緒に仕事をしています。
 ずいぶん摩擦を感じます。葛藤を感じます。それは、あなたと相手に「違い」があるからなのです。ものの見方やとらえ方の違い、それは価値観の違いともいえるでしょう。もっといえば抱えている人生の違いといっても過言ではありません。
 対人援助は、「相手を理解すること」がスタート地点になります。相手の側から相手の気持ちを理解する。しかし、「こうするべきだ」、「これは許せない」など、あなたの気持ちに引っかかりがあり、どうしても相手の側に立てないことがよくあります。つまり、対人援助のスタート地点にも立てないのです。ボクもいっぱい経験してきました。だから、自己覚知が大切なのです。自己覚知をし、自分とは違う相手を理解しようとする。
 同じことが、組織やチームで一緒に仕事をしている人たちとの関係にもいえます。
 相手の側から自分とは違う相手を理解できると、相手はあなたを信頼してくれます。信頼されるとあなたは気持ちが楽になります。自己覚知を深めることは、対人援助職であるあなたが自分を守るためにも必要だといえます。


2010年04月25日(日)

自己覚知
 対人援助職には、「自己覚知」が大切だとよく言われます。では、自己覚知とはいったいどうすることなのでしょうか・・・?
 あなたは援助者である前に生身の人間です。当然価値観や感情をもっています。ですから、相手にいろいろな気持ちを抱いてしまいます。それは、いったいどこからきているのか、自分の人生を振り返り、気持ちのメカニズムを知ることによって、冷静に自分を眺めることができるようになります。このことを「自己覚知」といいます。
 少し違う角度から説明しますと、自己覚知とは、自分が今、どのような行動をとり、どのように感じているかを客観的に意識できること。また、自分をあるがままに受け容れることともいえます。
 例えば、「どうして私は、この人に対して腹立たしく思うのだろうか・・・」、「どうして私は、この子のことが可哀想でしかたがないのだろうか・・・」と自分の気持ちを振り返るのです。そして、そうした気持ちになるメカニズムを整理する。これが入り口です。次に、そんな自分を客観的に眺め、自分自身を受け容れる。さらには、自分の気持ちをコントロールして、自分の気持ちに左右されないように、相手とかかわる。
 ここまでできれば100点かもしれません。でも、なかなかそんなに都合よく自分の気持ちをコントロールできません。あなたはプロの援助者である前に、生身の人間ですから・・・・。
 このホームページを、今日アップしました。これからしばらくの間、対人援助職に就くあなたの「自己覚知」について、考えていきたいと思います。ご意見をいただければ幸いです。


2010年04月23日(金)

愚痴(2)
 あなたも愚痴をこぼしたくなるときがありますよね。愚痴をこぼしている自分が情けない。そんな自分が嫌になる。という人も多いと思います。
 昨日も書いたように、愚痴を言うことができずに溜め込んでいくと、やがて大爆発を起こします。他人を必要以上に激しく責め立て周囲の人から嫌われる。また、心や体が疲れ果て動けない。病院に行くと「抑うつ症状」と診断される。
 このような状態にならないためにも、愚痴を小出しすることは大切なのです。ですから、職場の人でも、友だちでも、家族でも、誰でもいいですので、信頼できる人に愚痴を聴いてもらってください。
 そのときに、一言説明しておくと、相手はわかってくれると思います。このような説明です。「私の愚痴は私の気持ちだし、あなたとは関係ないの。否定も肯定もしないでただ聴いてほしいだけ」。そして、聴いてもらったら、「ありがとう」とお礼を言いましょう。


2010年04月22日(木)

愚痴
 愚痴を聴くのはうんざりしますね。利用者さんや患者さん、また上司や同僚の愚痴に困っている人は多いのではないでしょうか。
 実は、愚痴というのは、ストレスを溜め込まないように小出ししている現象なのです。愚痴が言えず、ストレスが溜まりに溜まると、やがて大爆発を起こします。そうなると、それこそあなたの手に負えなくなってしまいます。
 ですから、愚痴は聴いてあげましょう。聴き方のコツとしては、あなたと関連づけないこと。関連づけると腹が立ちます。愚痴は相手の気持ちであってあなたの気持ちではないのです。あなたとは関係ない。反論してあなたの気持ちを言うと、今度は、愚痴の矛先があなたに向いてしまいます。ますます腹が立ちます。ですから、純粋に相手の愚痴を聴く。
 どうしても純粋に聴けず、腹が立つ場合は、あなたのコンプレックスが影響しているかもしれません。そうなると、今度は相手の問題ではなく、あなたの問題になります。あなたがなぜ腹が立つのかを振り返ってみてください。腹が立つ理由があなたの人生の中にあるはずです。そのメカニズムを知れば、自分をある程度客観視することができます。
 ただし、自分のことを知るとしんどくなることがあります。そのことについては、改めて書くことにします。


2010年04月21日(水)

年上の部下
 昨日は、昨年度、ボクの一連の研修を受けたメンバーの自主的な勉強会に参加しました。それぞれの職場で抱えている悩みや困難を出し合い、皆でスーパービジョンをする。それに対してボクがコメントするといった進め方でした。
 その中で、「自分は上司だが、年上の部下に対してものが言いにくい」という相談が出されました。「上司として、言うべきことは言わなければいけない。でも言えない」。そうした葛藤を抱えているようです。組織の中では、上司という位置づけははっきりしている。だから、言っても誰もおかしいとは思わないはずなのにです。
 このような悩みを抱えている人は多いかもしれません。対人援助の分野では、年上の部下がいるという状況が結構ありますものね。
 そのような悩みを抱えている人は、一度自分を振り返ってみてほしいと思います。「なぜ年上の人には、ものが言いにくいのか、あるいは、なぜ何かを指摘しにくいのか、指示しにくいのか・・・」。ひょっとしたら、あなたの心の中に、今までの人生で経験した何らかの引っかかりがあるかもしれません。それは、コンプレックスなのかもしれません。
 「自分がなぜ言いにくいのか・・・」、そのメカニズムが何となくわかってきたら、無理に背伸びをせず、年上の部下に、逆に相談してみてください。そして、どうしたらよいかを部下と一緒に考える。そうすれば、素直な気持ちでお仕事できるかもしれません。
 すべての人にこのような方法がよいとは思いませんが、1つの方法になるのではないかと思います。

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