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対人援助のお勉強ブログ

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2011年07月26日(火)

身勝手な行動

 携帯電話は、もはや日常生活の必需品になりました。私も携帯電話を忘れようものなら、一日中、不安や焦りを感じます。それはもはや仕方のない現象だとしても、マナー違反には閉口します。電波が心臓のペースメーカーや医療機器に悪い影響を及ぼすことは広く知られています。にもかかわらず、満員電車や病院の中で平気で話したりメールをしたりする光景をよく見かけます。あなたは、以前、注意をしてにらまれたことがあって、あるいは、「よけいなことを言われたら嫌だ」という気持ちがあって、注意することすら躊躇してしまいます。

 細い道を歩いていて、向こうからやってきた人とすれ違ったとき、あなたは衝突を避けようとして、できるだけ端に寄り立ち止まりました。ところが大きな荷物をもっていて避けきれず、平気で真ん中を歩いてきた相手の肩とあなたの肩がぶつかってしまいました。あなたは「すみません」と謝りました。でも、相手は「チッ!」と吐き捨てそのまま立ち去りました。このような場合は、たいてい衝突を避けようとした方が謝り、ぶつかって来た方が怒ります。本当に理不尽な話です。

 少々極端な例だったかもしれませんが、この例に近いような身勝手な行動が、組織やチームの「集団」としてのまとまりを壊していくのです。 




2011年07月18日(月)

集団としての課題・・・・よくない社会現象の縮図
 近年、犯罪が凶悪化する、いじめが陰湿化する、規則やマナーを守らない人が多いなど、「安心して暮らせない」「元気に学校にいけない」、「気持ちよく街を歩けない」などの状況が明らかに増えています。
 では、どうしてこのような状況になってきたのでしょうか。そこには、私もあなたも含めて人々の心のどこかに「自分さえよければいい」といった気持ちがあるのではないかという気がします。また、こうした気持ちも含めたよくない社会現象の縮図が、あなたの職場集団にも、一人ひとりの職員の心の中にもあるのではないかという気がします。



2011年07月12日(火)

ここまでの小まとめ

 プライベートでも仕事でも、今まで人間関係でずいぶんつらい思いをしてきた人は多いのではないでしょうか。本章でみてきたように、人間関係は、私たち「人」が「人間」として生きていく上で、避けて通れないものなのです。本書の読者は、対人援助職の方が大半だと思いますが、多かれ少なかれ、組織やチームの人間関係のこじれで、悩んだ経験をもっていると思います。

 でも、避けて通ることができないのであれば、向き合うしかありません。いろいろな角度から組織やチームの人間関係を眺めると、何かが見えてきます。行動の法則が見えてくるかもしれません。援助関係によくない影響を与えている関係の連鎖も見えてくるかもしれません。また、先ほど見てきたように、それぞれのメンバーには「なるほど」という事情がありますが、「同じ方向を向いていない」現実が見えてくるかもしれません。その見えてくる「何か」に突破口があるのです。

 組織やチームは、構成されるメンバーの「集団」です。この集団が、そもそも共有している目的を再確認し、同じ方向を向いて役割分担をし、目的の達成のために進んでいく。理想的な姿ですが、それは、組織やチームが「仲間集団」として成長することなのです。

対人援助の仕事は、ストレスを溜め込みやすい仕事だからこそ支え合う。さらには、個々のメンバーの専門性が高まるように、組織やチームそのものが専門性を高めていく。そうした姿に少しでも近づけたいものです。そのためにも、組織やチームの人間関係を客観的な目で理解する必要があるのです。

 次章では、組織やチームが人間の集団として自ずと抱えてしまっている課題を整理していくことにします。




2011年07月06日(水)

人間関係を理解する目・・・・・客観的な目

 主観的な目には、プラスとマイナスがあることがわかりました。でも、主観的な目だけでは、人間関係を理解することは困難なのです。ひたすら怒ったり、感動しているだけでは、自分自身や他の職員、あるいは他の職員との対人関係、組織やチームの人間関係を理解することはできません。物事を客観的な立場から、事実に基づいて冷静に判断する力も必要となってくるのです。これを「客観的な目」と呼ぶことにします。

 客観的な目で、事実を冷静に受け止めることによって、自分には都合の悪いことがあるかもしれません。主観では、「間違っている」と思ったり、「許せない」と思うからです。ここで大切なことは、自分とは違う相手の主観を理解するということなのです。前著で再三示してきましたが、「自分と相手とは違って当たり前」、これを忘れないということです。相手の主観のメカニズム、すなわち、「どうして私が間違っていると思うことをするのだろうか」「どうして私が許せないことを言うのだろうか」ということを理解しようとする。そうすると、「なるほど」と今まで見えなかったことが見えてくることがあります。また、今まで思いもしなかった自分の考え方や行動、ものの見方の特徴も見えてくることがあります。他者に与えていた影響も見えてくるかもしれません。この気づきが、人間関係をよくするために、自分の行動を変化させることにつながるのです。つまり、人間関係の理解には客観的な目が必要になのです。では、どのようにすれば、客観的な目で状況を見ることができるのでしょうか。




2011年07月03日(日)

人間関係を理解する目・・・・・主観的な目

 では、組織やチームの人間関係をどのように理解していけばいいのでしょうか。

以前、さまざまな違いによるストレスを考えてきました。それぞれ自分の専門性、立場や役割、また、意識、性格や価値観などに基づいて仕事をしています。これらを、ここでは一括りにして「主観」と呼ぶことにします。

 それぞれの援助者は、それぞれ違う主観に基づいた目でものを見ています。主観はみな違うので、当然、ものの見方が違ってきます。ときと場合によっては、見たいものだけを見てしまっていることもあるでしょう。見たくないからこそ見えてしまうこともあるでしょう。ですから、同じものを見ていても人によって見え方が違うのです。自分に見えているとおりに他の人にも見えているとは限らないのです。多くの人が経験しているように、そのズレが原因で組織やチームの人間関係がこじれることがとても多いのです。

 違う主観は、専門性や立場の違い、性格や価値観の違い、温度の違いだけではなく、そのときの精神状態によって、また、そのとき自分は何を求めているのかによっても違うかもしれません。こうした事実を心に留めておかなければならないのです。

 「主観的な目」とは、今示してきたような自分の主観でものを見る目のことです。多くの場合、経験に基づき、感情を伴っています。主観的な目でものを見ていると、「何てことをするんだ」「私には信じられない」「それは許せない」などと感じてしまいます。あなたの周囲は、間違っていることだらけ、許し難いことだらけになりかねないのです。それではあまりにもしんど過ぎます。

 とはいっても、主観的な目が大切な時もあります。「患者さんの悲しみに寄り添い一緒に涙を流す」「美しい景色を見て感動する」「音楽を聴いて心が和む」などは主観的なものです。この「目」がなければ豊かな人生を送ることはできないでしょう。また、豊かな対人関係や人間関係を築くこともできないでしょう。




2011年06月30日(木)

対人関係の連鎖(2)

 今示してきたのは、組織やチームのメンバーとの関係と援助関係に同時に起こる「ヨコの連鎖」といえます。実はもう一つ、世代を超えて起こる「タテの連鎖」という現象も現実的に起こっているのです。「上司や先輩に育てられたように部下や後輩を育てる」というものです。ケアマネジャーのあなたの上司や、看護師のあなたの先輩が、自分自身かつての上司や先輩に指導されたようにあなたを指導していたのと同じです。

 こうしたことから次のようなことが起こります。たとえば、「かつて、上司に突き放されて育ったように部下を突き放す」「かつて、先輩に支えられなかったように後輩を支えない」といった連鎖です。もちろん、よい連鎖も起こります。「かつて、上司に受け容れられたように部下を受け容れる」「かつて、先輩に支えてもらったように後輩を支える」ということです。

こうしたタテの連鎖は、子育てにもよく似ています。あなたに子どもがいるなら思い浮かべてください。子どもをほめたり叱ったりしていると、ふと気づくときがありませんか。「このほめ方は、私が子どもの頃、母親にほめてもらったほめ方だ」「この叱り方は、父親が私を叱った叱り方だ」などです。子どもの育て方のモデルになるのは、自分の育てられ方だということは、よくいわれていることです。

 いずれにしても、よくも悪くもこうした「対人関係の連鎖」という現象が現実的に起こっているのです。無意識のうちに起こるので恐いものです。こうした現象が起こっているということを考えると、自ずと組織やチームのメンバー同士の対人関係の質が問われてきます。対人援助の組織やチームでは、あなたをはじめそれぞれの援助者が、利用者などとのよりよい援助関係を作ることが求められます。よい援助関係は、対人援助の前提になるからです。そのことを考えると、他の業界以上に、組織やチームの人間関係、あるいは、メンバー間の対人関係が重要になるのです。

「対人関係の専門性」を高めるための体系的な教育を行っていなくても、こうした連鎖が起こっていることを理解し、「よい連鎖を起こすためにはどうすればいいのだろうか」を考えることが大切なのです。




2011年06月28日(火)

対人関係の連鎖(1)

 では、「対人関係の専門性」を高めるためには何が必要なのでしょうか。どんな仕事もそうかもしれませんが、特に対人援助の場合は、組織やチームの人間関係が、あなたと利用者さんや患者さん、生徒さんとの対人関係(これを「援助関係」といいます)に大きな影響を及ぼします。ですから、援助関係をよいものにするためには、自ずと組織やチームの人間関係をよいものにする必要があるのです。そして、そのためには、メンバー間の対人関係の質が問われてきます。

 50年ほど前から研究されているのですが、実は次のような現象が起こっています。「援助関係と、援助者と上司との関係には、同時に同じような困難が現れる」というものです。つまり、一方の関係で生じた感情は、もう一方の関係でも生じる。二つの関係は連鎖しているということなのです。このような現象を「パラレルプロセス」と呼んでいます。研究の出発点は「援助者と上司との関係」でしたが、これを「組織やチームのメンバー同士の関係」と置き換えることもできます。

 具体的に示すと、たとえば次のような連鎖です。あなたが、上司などの他の組織やチームのメンバーにほめられたいと思って振る舞うときに、その振る舞いは、無意識のうちに、あなたにほめられたい利用者などの振る舞いを真似ているということです。また、利用者があなたに対してまだ言語化していない、たとえば「もっと私の話を聴いてほしい」という感情を、あなたが他のメンバーに対して無意識のうちに表現しているということです。

 今の例は、援助関係から組織やチームのメンバー関係への連鎖の流れでしたが、逆のパターンもあります。つまり、他のメンバーに突き放されたあなたの葛藤を、そのまま利用者に向けてしまい、利用者を混乱させてしまう。その結果、援助関係を悪化させてしまう。第一章でみてきたケアマネジャーのあなたが、上司やチームのメンバーから、納得できない批判を浴びせられ、その関係にストレスを感じることによって、あなたの眼中から利用者が消えてしまったことに象徴されます。

これは悪い連鎖ですが、よい連鎖も生じます。お互いに認め合い受け容れ合い、居心地のよい組織やチームの中で仕事をするあなたは、無意識のうちに利用者を認め受け容れることができるようになるのです。これらは、組織やチームのメンバー関係から援助関係への流れで生じる連鎖なのです。




2011年06月26日(日)

「業務のための専門性」と「対人関係のための専門性」

 次に、二つの専門性を整理しておくことにします。二つの専門性を、仮に「業務のための専門性」と「対人関係のための専門性」としておきます。前書の『対人援助職の燃え尽きを防ぐ ~個人・組織の専門性を高めるために』を併せて読んでいただけるとわかりやすいと思います。

 例えば、二人の介護職がいるとします。仮に、西村さんと足立さんという名前にしましょう。二人とも女性です。同じ「介護福祉士」という国家資格をもっていますし、年齢も経験年数も同じくらいです。

 西村さんの介護は、非常に丁寧で手際がよいという定評があり、他の職員は一目を置いています。車椅子からベッドや便器への乗り移り、着替え、清拭、入浴、食事など、お年寄りたちも「彼女なら安心して任せられる」と評価しています。また、お年寄りがなるべくナースコールを押して職員を呼ばなくてもいいように、ベッドサイドに必要なものや次の日の着替えを用意しておくなどの配慮も完璧です。

 これだけ優れた介護技術をもっているなら、お年寄りには評判がいいのだろうと思うのですが、どうやらそうではなさそうです。

 あるお年寄りが言いました。「昨夜、消灯のあと廊下で『あのー、さっき息子が・・・・』と西村さんに話しかけると、西村さんは、『息子さんは、さっき帰られましたよ。もう消灯したから早く寝てくださいね』と言って、そのまま私の横を足早に通り過ぎていきました」。

 そのお年寄りは、息子さんが面会に来て、「この頃体調が悪くて、しばらく会社を休もうと思う」と言っていたので、とても心配していたのです。消灯の時間なので、いったんベッドに入ったのですが、心配で心配でどうしていいのかわからず、気がつけば車椅子で廊下に出ていたそうです。

 どうやら西村さんには、お年寄りを遠ざけるようなところがあるようです。「とても忙しいのよ。話しかけないで」という空気を出しています。ほかのお年寄りからも「西村さんにはものを頼みにくい」「声をかけにくい」「愛想が悪い」などの声が聞こえてきます。

 他の職員も、西村さんの介護技術には一目置いているものの、彼女がかもし出す空気や態度から「相談しにくい」「彼女は一人で仕事をしているみたい」「仕事はよくできるので文句が言えない」などとこぼしています。

 一方、足立さんは、「これでよく国家試験に合格したなあ」と思えるくらいに介護技術は未熟なのです。今までお年寄りに大きな怪我をさせたことはないものの、乗り移り動作では、危なっかしい場面がよく見られます。食事介助をしていてもよくこぼしてしまいます。清拭をしていても、お年寄りから「ちょっと強すぎる。痛い痛い・・・」と叫ばれてしまいます。

 ところが、足立さんの評判は極めていいのです。「足立さんは、とても明るく愛想がいい」「心配ごとがあれば、顔を見て、真っ先に『どうされたんですか?』と声をかけてくれる」「彼女に話を聴いてもらうと、とても気持ちがすっきりする」「彼女がフロアにいると、それだけで安心する」。お年寄りは口々にそう言います。「介護が下手で、ときどき痛い思いもするけれども、西村さんより足立さんの方がいい」。あるお年寄りは苦笑いしながらもそう言います。

 「足立さんが未熟なところは私たちが補ったらいい」「彼女は、私を否定せずに愚痴を聴いてくれる」「しんどいときでも、彼女がいてくれたら明るく元気に仕事ができる」など、他の職員の評判も上々です。

 極端な例をあげましたが、あなたは、どのように感じましたか。西村さんは、「業務のための専門性」が優れていました。足立さんは、「対人関係のための専門性」が優れていました。さて、どちらがいいのでしょうか。

 言うまでもありません。対人援助の専門職には、どちらの専門性も必要なのです。どちらが欠けていてもダメなのです。とはいうものの、対人援助職は、生身の人を援助する専門職ですから、「対人関係のための専門性」が最も重要であることには間違いありません。

 「業務のための専門性」は、国家試験でもチェックされ、職場でも教育が行われているところは多いと思います。ところが、「対人関係のための専門性」はどうでしょうか。現実問題として、体系的に教育を行っている職場は少ないのではないでしょうか。




2011年06月22日(水)

人間関係をよくする対人関係・・・・・「人間関係」と「対人関係」

 どちらも人と人との関係のことを指しています。「人間関係」とは、「human relations」の邦訳で、第二次世界大戦後、アメリカから経営学や産業関係学の専門用語として輸入されました。ジャーナリズムの世界でブームになってから、邦訳としての「人間関係」は、日常語として定着しました。そもそも「human relations」とは、産業分野における人事管理の方法だったのです。ここでは、「生産性を高める」といった目的のための手段としての人間関係、つまり、よくしたり、悪くしたり、作ったり、作り替えたり、壊したりする「対象」としての人間関係だといえます。そもそもこうした意味をもつのですが、本書では、「誰にでも当てはまる、どこにでもある、特に誰といった特定の人ではなく、匿名の人同士にみられる関係」としておきます。

 一方、「対人関係」とは、対人援助の臨床分野から生まれた「interpersonal relationship」の邦訳です。「固有の人格と名前をもった人同士の関係」だといえます。「interpersonal」とは、決して一般化できない「固有の人格と人格の間」を意味しています。つまり、対人関係とは、今ここでの(実際に目の前にいるかどうかはともかく)特定の人との関係で、ほかには存在しません。

 このように、人間関係と対人関係は、まったく性質の違う言葉なのです。両方の言葉を考え合わせると、「組織やチームの人間関係をよくするためには、一人ひとり固有のメンバー同士のよい対人関係が必要だ」ということになります。




2011年06月18日(日)

人間関係から生まれる行動の法則

 「着席の法則」と「着替えの法則」は、大勢の集団、あるいは、人数には関係ないいわゆる「集団」の中での人間行動の法則です。「みやげの法則」は、一対一の対人関係場面でも起こる法則です。

 この3つの例は、いずれも人間同士がかかわる中、つまり人間関係の中で起こる行動の法則なのです。あまりにも日常的過ぎるので、日頃は、意識しないことかもしれません。でも、人間関係を理解する上で、これほどわかりやすい例もないのです。集団のメンバーには、目に見えない何らかの相互作用が起こっているのです。その相互作用の結果、こうした法則が生まれるのです。この法則は、集団の中でのメンバーの行動を方向付けます。あなたには、ほかにどのような法則が思い浮かびましたでしょうか。

無意識とはいえ、こうした法則にしたがう方が、よい人間関係を築くことができるかもしれません。ところが逆に、人間関係をよいものにし、集団の力を高めるためには、課題になることもあるのです。そのことについては、改めて詳しく示すことにします。




2011年06月15日(水)

人間関係から生まれる行動の法則・・・・・みやげの法則

 いま、あなたの家に客が訪ねてきた。数日前に、「ちょっと相談に乗って欲しい」と頼まれていた人だ。かなり前から知ってはいるが、それほど親密な仲ではない。チャイムがなって、玄関を開ける。「どうもお忙しいところおじゃまします」。ていねいな挨拶が聞こえる。「こんにちは。お待ちしていました」と応える。その瞬間、あなたは客が右手に袋を持っていることに気づく。その中には、きれいな包装紙に包まれた箱が入っているではないか。「おみやげだ」と考えたあなたの直感は当たっているはずだ。相手を部屋に招き入れ話がはじまっても、袋はソファーの横に置かれたままだ。それから後、あなたはどんな行動をするだろうか。その袋にはいっさい目もくれず、客との話を続けるのではないか。決して袋のことを忘れたわけではない。それどころか、あなたは袋が気になって仕方がないはずだ。しかし、心の中で、「見ちゃいけない、見ちゃいけない」と言い聞かせる。ところが、そう考えるほど、目は袋の方に行きそうになる。「あのみやげの中身は何だろう」。そんなことまで考えてしまう。相手の話など半分しか聞いていないかもしれない。そして、ようやく客が帰る時間がやってくる。客は、おもむろに袋を取り上げる。「どうも今日はありがとうございました。これはお口に合うかどうか分かりませんが・・・・・・」。袋を差し出されたあなたの対応が見ものだ。あなたは、そのとき初めて袋があることに気づいたような顔をする。ここでは、できるだけ「驚いた」雰囲気を出すことが求められる。「えーっ! とんでもない。わたしはただお話をお聞きしただけですから・・・・・・」。その後、二人の間で袋を押したり引いたりが2~3回は続くかもしれない。人によっては、それが4~5回のこともあるだろう。しかし、とにかく最終的には、おみやげはあなたのところに落ち着くことになる。「そうですか。どうもすみません」。ほとんどの場合、みやげをもらった方がお詫びを言う。本当は、あなたは袋に気づいた瞬間に、「みやげ」だと確信していた。相手だって、「気づいてたくせに」と思っているかもしれない。それにもかかわらず、多くの人々が、こうした行動を取る。「みやげのやりとり」という状況での行動が、容易に想像できるのである。さらに興味深いことに、われわれは相手によって行動を変える。玄関先に現れたのが、大の仲良しだったとしよう。あなたは、相手がみやげの入ったような袋を持っていることに気づく。「わーっ、それ何だい? ひょっとしたら、おみやげ? めずらしいこともあるもんだ。もったいぶらずに、さっさと出しなさいよ」。仲のいい友達であれば、これが自然な反応である。




2011年06月13日(月)

人間関係から生まれる行動の法則・・・・・着替えの法則

 あなたは3日間の研修に参加するため会場にやってきた。意欲満々で課題に取り組んだこともあって、あっという間に1日目が終わる。通いの研修のため、そのまま帰宅する。さて、2日目の朝を迎えた。顔を洗い、朝食を済ませる。トイレにも行き、歯も磨くことだろう。そして、いよいよ家を出かけることになる。そのとき、あなたは前の日と同じ服を着るだろうか。ほとんどの場合、前日とは違った服を探すはずだ。とくに女性の場合、その確立は100%に達するのではないか。それは、われわれが開講している公開講座の体験でも実証されている。この講座は夏休みに3日間のスケジュールで行われる。参加者の累計は700名を超えている。しかし、彼らのうち、3日間を通して同じ服を着てきた者は一人とていない。その理由は、「汗っかきだから」「おしゃれが好きだから」などバラエティに富んでいる。「他の人がそうするから」という消極的なものもある。「たくさん持っているから」と言いたそうな、少し嫌みな人もいる。そんなときには、「下着は替えてるんでしょうね」と茶化してみたくなる。理由は何であれ、結果的に全員が服装を替えるのである。「3日間は、違った服装で参加しなければならない」。そんな決まりがあるはずもない。それにもかかわらず、多くの人々が同じ行動をする。




2011年06月10日(金)

人間関係から生まれる行動の法則・・・・・着席の法則

 「法則」というとずいぶん難しそうな言葉ですが、私たちは日頃からよく使っています。「ニュートンの法則」「オームの法則」などは、その中味をうまく説明できないまでも、誰もが聞いたことのある法則だと思います。法則とは、広辞苑(第六版)によると、「いつでも、またどこででも、一定の条件の下に成立するところの普遍的・必然的関係。また、それを言い表したもの」ということです。

 実は、人間の行動にも法則があるのです。それは、集団の中での人間関係から生まれます。あなたも日常生活を振り返ると思い当たるところがあると思います。おもしろい例がありますので、少々長いですが引用しておくことにします

出典:吉田道雄著『人間理解のグループ・ダイナミックス』ナカニシヤ出版、2001年、14~17頁、一部改変。


 ある講演会での出来事だ。あなたは少し早めに会場にやってきた。まだ時間があるせいか、席に座っている人はほとんどいない。そのため、あなたは自由に席を選ぶことができる。そんなとき、あなたはどこに座るか想像していただきたい。「何と言っても楽しみにしていた講演ですよ。講演者に最も近い席に座るに決まってるでしょ」。あなたは、競争相手もいないのに先を争うように1列目の中央に座るだろうか。その可能性はかなり少ないのではないか。あえて後方とは言わないが、1列目からは少し距離を置いた席が心地よさそうに思える。しかも人に挟まれるよりも、通路側の方が望ましい。理由は人によってさまざまだ。「前の方だと質問される」「最前列は、話し手のつばが飛んでくる」「おもしろくなくても逃げられない」。ここまで考える人がいるかどうかは分からない。改めて理由を聞かれて困る人もいるだろう。いずれにしても、1列目の真正面だけは避けたい気持ちになってしまう。着席行動に見られるこの傾向は、かなり普遍的なものである。むしろ、進んで1列目に座ると、「あの人は変わっているから」などと言われてしまう。そんなことから、「本当は前に座りたい」と思っている人も、後ろの方で満足することになる。この現象は、人や場所・状況と関係なく起こる。学校の教師は、いつも子どもたちに「前から座れ」と号令をかけている。その彼らも、自分たちの会合になると、初めから最前列には座らない。このように、会場を見る前に座席の様子が想像できるのだ。




2011年06月08日(水)

人間関係を理解するということ・・・・・避けられない人間関係(2)

 「私は何のために生きているのだろう」。誰もが一度は抱く疑問です。特に青年期には、こうした疑問に対する答えが見つからず、大いに悩むものです。「生きていても意味がない」と判断し、自殺に走る若者が多かった。「多かった」と書きましたが、実はこれは戦前の話なのです。戦前の日本では、青年期の自殺が多いことが文化的な特徴ともいえるものでした。昨今は、中高年の自殺が非常に増えてきています。その代わりといってもいいように、犯罪の低年齢化が進んできました。決して、若者が悩まなくなったのではないということです。若者たちのマイナスのエネルギーの向かう方向が、内側(自殺)から外側(犯罪)へと変わってしまったのかもしれません。

 いずれにしても、「集団の中で生きづらい」「他者と上手にかかわれない」人たちが実に多いということなのです。こうした気持ちは、ほとんどの場合、人間関係から生じます。望む・望まないにかかわらず、意識・無意識にかかわらず、周囲に他者がいる中で暮らさざるを得ない人間にとって、「人間関係」を避けることはできません。ですから、人が気持ちよく暮らすためには、また、豊かに暮らすためには、人間関係を理解する必要があるのです。人間関係を理解するということは、人間にとって「生きること」そのものなのかもしれません。




2011年06月06日(月)

人間関係を理解するということ・・・・・避けられない人間関係(1)

 人は、生まれてから死ぬまで何らかの集団の中で暮らしています。まず、生まれたばかりの赤ん坊は家族という集団の中にいます。たとえ、慈恵病院(熊本)の「こうのとりのゆりかご(通称:赤ちゃんポスト)」に入れられた赤ん坊であっても、病院の集団、やがては、乳児院の集団の中で暮らすことになります。

 赤ん坊は大きくなると、通常、家族集団を維持しながらも、地域の何らかの集団、保育所、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、そのほかにも、習いごとの集団、アルバイト先の集団など、数多くの集団の中で暮らします。やがて、就職する人は、会社などの集団もプラスされていきます。

 定年退職を迎えることになっても、家族や地域の集団の中で暮らしますし、病気で入院しても病院の集団の中で暮らすことになります。

 このように、人と集団は、切っても切れない関係にあるのです。言い換えると、たとえ、それを望んでも、「人は一人では生きていけない」ということになるのかもしれません。「ゆりかごから墓場まで」。あなたも、この言葉を今までに一度や二度は聞いたことがあるでしょう。これは、第二次世界大戦後、イギリス労働党が掲げた政治目標で、そもそも社会保障の充実を目指すキャッチフレーズでした。考えてみれば、私たちは、自分の力でゆりかごにも墓場にも入ることができません。生まれるときも死ぬときも誰かのお世話になるのです。もちろん、生まれてから死ぬまでの間も、常に誰かとかかわりながら生きています。常に、今掲げたさまざまな集団の中にいるからです。




2011年06月04日(土)

人間関係を理解するということ・・・・・「ヒト」から「人間」へ

私たちは、「人間関係」という言葉をよく耳にしますし、よく使います。あまりにも日常的な言葉で、耳にしたり使ったりすること自体慣れっこになっていますが、実は、私たち人間にとって、非常に重要な意味をもつのです。ですから、組織やチームの人間関係を考えていく前に、「人間関係を理解するということ」そのものについて少し掘り下げてみることにします。

 

 「ヒト」とは、「霊長目ヒト科の哺乳類。直立して足歩行し、動物の中で最も脳が発達する・・・」。これは、生き物としての「ヒト」の定義付けです。確かに、生物学や医学の専門書を見ると「ヒト」と書いてあります。でも、今、私が示そうとしているのは、そういった「ヒト」ではありません。

 では、「人」ではいかがでしょうか。「人」という文字は、「二人の人が支え合っている姿」といったイメージをもっている方は多いと思います。あなたはいかがでしょうか。ドラマでも金八先生がそのように説明していました。そのイメージからすれば、「人」には心が通い合っているということが想像できます。しかし、実は、このイメージは誤りで、漢和辞典を調べると、本当は、「人」という文字は、「一人の人が横向きに立っている姿を象形化したもの」でした。

 言葉遊びのようになってしまいますが、今、私がお伝えしたいのは、「ヒト」でもなく「人」でもなく、「人間」という文字がもつ意味なのです。「人間」という文字に含まれる「間」が意味していることは大きいのではないかと思います。「人間」という文字は、人が社会や集団の中で生きているという現実を訴えかけているような気がします。

 日頃からかかわっている相手を「ヒト」と見るか「人間」と見るかでは大きな違いがあるのではないでしょうか。あなたも仕事でかかわっている人たちを思い浮かべてください。利用者さんや患者さん、生徒さん、その家族、あるいは、上司、同僚、部下、他の専門職の人たちがいます。自信をもって、「私は相手を『人間』として見ています」「『ヒト』としてなど扱ったことはありません」となかなか言い切れないのではないでしょうか。「ヒト」ならまだましです。あまりにも忙しくて、「ヒト」どころか、相手を「モノ」として扱っていることはないでしょうか。

 一人ひとりの人は、みな「人間」であって、さまざまな人と人との間で暮らしています。あなたが仕事をしている組織やチームだけではありません。家族も友人も、ほかにも所属している集団があるでしょう。大切なことは、人は、いくつもの人間関係を背負って生きているということなのです。ですから、人を理解するためには、集団やその中で生じる人間関係を理解する必要があるのです。




2011年06月01日(水)

抜け出せないストレス(2)

 「自分を正当化する」といった場合もあります。あなた自身の心の中で処理をするのですが、自分でストレスから抜け出すことができないようにしているパターンです。

イソップ童話の「すっぱいブドウ」を知っている人は多いと思います。おなかを空かせたキツネがブドウに飛びついて取ろうとします。ところが、高いところにブドウはなっていて、いくら飛びついても届かないのです。やがてキツネは、「あのブドウはすっぱいのだ」と食べることをあきらめます。

 同じようなことが、あなたにも起こっていませんでしょうか。「あのときはお腹が痛かったから仕方がない」「とても忙しい状況だったからできなかったんだ」。自分の思うようにならなかったことを正当化してしまうのです。

 ボクが、かつて大学で教員をやっていたときのことです。ある学生は、一生懸命就職活動をし、何カ所も採用試験を受けるのですが、一カ所も内定をもらうことができません。「私の就職活動は間違っていない。こんなに内定がもらえないのは、世の中が不景気だからだ」。世の中は確かに不景気ですが、一人で何カ所もの会社から内定をもらってくる学生もいます。

 自分を正当化することになれば、改善しようという努力をしなくなります。でも、「ブドウを食べたかった」「お腹が痛くてもうまくできたはずだ」「忙しくてもやるべきだった」「不景気でも就職したい」といった、本来の気持ちがどこかにあるとすれば、改善しようとしないこと自体がストレスの原因になるのです。ですから、いつまで経ってもストレスから抜け出すことができなくなるのです。




2011年05月31日(火)

抜け出せないストレス(1)

 以上のような違いから生じるストレスが、複雑に絡まり合い、多くの人は、そこから抜け出す糸口を失ってしまうのです。では、どういったメカニズムで、人はストレスから抜け出すことができなくなるのでしょうか。

 組織やチームのメンバーに違いがあると、本章の冒頭で示したように、必ず「思うようにならない状況」が発生します。そして思うようにならない状況を何とか思うように変えていこうと自分の意見を主張します。なぜならば、人はみな、自分のものの見方や考え方が正しいと思う傾向にあるからです。

 すると、ますます相手も自分の思いを主張します。このような場合、お互いに「相手を認めよう」という気持ちはありません。自分の思いを相手にわからせようとして主張するのです。このやりとりが何往復も繰り返されることによって、お互いの感情が次第に高まり、強い主張、激しい主張へとエスカレートしていくのです。結局、お互いに認め合うことができず、どこまで行ってもかみ合わないのです。そしてお互いにストレスから抜け出すことができなくなるのです。

もし、そういった事態を避けるために、あなたが身を引いたらどうでしょうか。つまり、納得できないまま、相手の意向に沿うとしたらどうでしょうか。相手はそれで満足するかもしれませんが、あなたのストレスはまったく解消されません。結局、あなたは、ストレスから抜け出すことができなくなるのです。




2011年05月29日(日)

性格や価値観の違い

 また、性格や価値観の違いも大きな個人差といえるでしょう。同じぐらいの年齢、同じ性別、同じ専門職、同じ立場、同じ役割でも、また、意識や意欲の程度もよく似ているといった場合でも、この違いはあるのです。なぜならば、人はみな、抱えている人生が違うからです。

 子どもの頃に、両親がどのようなしつけをしてくださったのか、どのような友だちと出会ってきたのか、どのような先生と出会ってきたのか、どのような地域で暮らしてきたのか、どのような集団に属してきたのか、どのような立場だったのか、どのような勉強をしてきたのか、どのような仕事をしてきたのか、そんなことによって、人はみな性格や価値観が違います。その違いが色メガネとなって、それぞれの人の目に覆いかぶさっています。ある人は青いメガネをかけています。ある人は赤いメガネをかけています。青いメガネの人が黄色い事実を見ると、青みがかった黄色に見える。赤いメガネの人が黄色い事実を見ると、赤みがかった黄色に見える。同じ黄色い事実を見ていても見え方が違うのです。

 その違いによって、衝突が起こります。そして、お互いのストレスにつながるのです。「あの人とは生理的に合わない」などとよく言います。「自分が今まで培ってきた性格や価値観では許せないことを相手は平気でやっている」。あまりにも違いが大き過ぎると、それが非常に大きなストレスとなり、「生理的に合わない」と感じるところまでいってしまうのです。専門性、立場や役割の違いだけでは、そこまではいきません。場合によれば、この違いは、最もやっかいなストレッサーなのかもしれません。




2011年05月25日(水)

意識の違い

 さて、今度は、専門性、立場や役割といった専門職レベルや組織レベルではなく、角度を変えて、個人レベルの違いについて考えていくことにします。

まずは、意識の違いです。この意識の違いというのは、専門性、立場や役割とは関係なしに生じることがあります。同じ専門職で、同じ立場で同じ役割を担っているのに、「これは自分の仕事ではないのでしなくてもいい」「これは、自分の仕事だからしっかりしないといけない」といった違いが生じるのです。また、その仕事を「しなくてもいい」とか「しないといけない」という意識すらもっていない人がいるのも現実です。こうした違いによって、お互いストレスを感じることになるのです。

この意識の違いは、「意欲」の違いから生じていることもあります。意欲の違いは。退院支援のようにある特定の業務についてではなく、業務全般への意識に影響を及ぼします。あなたもちょっと想像してみてください。

あなたは、やる気満々で新しい部署に配属されました。ところが、その部署の多くの職員たちには、まったくやる気を感じません。「仕事は適当にこなして、定時になったら帰ったらいい」。大切な仕事でも、「明日できることなんだから、無理をして今日する必要はない」。いつでもそんな空気が漂っています。みんな平気で遅刻をする。提出物が期限までに提出されない。仕事中に私語が多い・・・・など、低い意欲は、業務全般によくない影響を及ぼしています。やる気満々のあなたがこうした部署に配属されたらいかがでしょう。ほかの職員に憤慨し、ストレスを溜め込むのではないでしょうか。やがては、あなたもやる気をなくしていくかもしれません。

その逆も考えられます。いろいろな事情があってまったくやる気をなくしてしまった人が、非常に意欲の高い職員が多い部署に配属されたらいかがでしょう。その人は思わず悲鳴を上げてしまいます。感化されて、やる気を高めていくこともあるでしょうが、「もうついていけない」と辞めてしまうこともあるかもしれません。後者の場合は、たいへんなストレスを感じます。




2011年05月22日(日)

立場や役割の違い
 組織の中で仕事をする場合、必ず上下関係のある人たちが一緒に仕事をしています。上下関係のない人たちのチームであっても、そのメンバーには役割の違いがあります。いずれにしても組織やチームのメンバーには、必ず立場や役割の違いが存在するのです。
 たとえば、管理者と最前線の職員を比べてみましょう。管理者は、管理的な目でものを見ます。それが仕事ですから。ところが、最前線の職員は、管理的な目でものを見ていると逆に仕事になりません。
 ですから、同じものを見ていても、その見え方や捉え方に違いがあるのです。これも、頭で考えると当たり前のことですが、お互いに一緒に仕事をしていると、腹が立つのです。これがお互いのストレスにつながっていくのです。



2011年05月19日(木)

専門性の違い

 専門性が違うということは、今まで勉強してきたことが違うということです。ですから、当然、同じものを見ても同じ人を見ても、見え方が違います。同じ問題を目の前にしても捉え方が違います。これは、頭でよく考えてみると当たり前のことなのです。ところが、一緒に仕事をしていると、その違いから、お互いに感情が衝突するのです。

 ボク自身もこんな経験をしたことがありました。かつて身体障害者の施設で働いていたとき、利用者の入浴をめぐって、よく看護師と対立しました。その利用者は、体調を崩し、もう一週間以上もお風呂に入っていません。本人は、「入りたい」と言っています。お風呂がとても好きなのです。少し体調もよくなってきたことだし、ボクは、「この利用者さんの施設での暮らしを豊かにするためにも、お風呂に入れてあげたい」と看護師に相談しました。何往復かやりとりをしました。そして、看護師は、利用者の血圧を測って、「まだダメですよ。血圧がこんなに高いでしょ。清拭にしておいてください。もう少し落ち着いたら入りましょうね」。ボクを尻目に利用者を説得していました。ボクは、当時まだ「社会福祉士」資格をもっていませんでしたが、社会福祉の勉強をして生活指導員(当時の職名)をしていました。そのとき、私も看護師も、何往復かのやりとりの中で、お互いに腹を立てていました。しかし、よく考えてみると、どちらも間違ってはいないのです。どちらも、自分の専門性にしたがって、判断していたわけです。

 こうした専門性の違いから、お互いに、あるいは、あなたは、ストレスを感じることになるのです。




2011年05月17日(火)

対人援助職の二重のストレス

 対人援助職は、大きな二重のストレスの中で仕事をしているといわれています。まずは、仕事の相手が人であるというところから生じるストレスです。相手が物や機械の仕事とはまったく違います。相手が物や機械であれば、「このボタンを押せばこうなる」「ここまで組み立てれば次はこの部品をはめこんだらいい」など、結果や行程がはっきりしています。こちらが工夫すれば成果も現れやすい。ところが、あなたの仕事の相手は生身の人。一生懸命やっているのに逆効果ということもあるのです。

 たとえば、AさんとBさんという二人の人がいるとしましょう。Aさんとはいつもうまくいきます。ところが、Aさんと同じようにかかわっているのに、Bさんとはまったくうまくいかない。次第にBさんに苦手意識をもつようになります。でも担当ですので、かかわらざるを得ません。苦手意識をもちながらかかわり、今日もうまくいかなかった。でもまた次の日もかかわらざるを得ない。やはりうまくいかなかった。また次の日も・・・・。あなたは、Bさんとのかかわりが苦痛になってきます。この苦痛が次第にストレスになっていくのです。

 また、こんなこともあります。同じAさんでも、さっきまでうまくいっていたのに、突然関係がぎくしゃくし出した。「私、何かしたのかなあ」と考えてみても、思い当たるところがない。「いったいどうなってるの」とわけのわからないいらだちを覚え、それがストレスになっていくのです。

 さらに、対人援助の仕事は、必ず組織やチームで行います。組織やチームの中には、いろいろな人たちがいます。上司もいれば部下もいる。同僚もいればほかの専門職もいる。また、チームは、専門職だけで構成されるとは限りません。特に、自宅や地域で暮らしておられる人たちを援助することになると、その家族や親戚、ご近所の人たちやボランティアといった、専門職ではない人たちもチームの一員として捉える場合もあります。

こうしたいろいろな人たちと一緒に仕事をすることによって摩擦が生じ、ストレスを感じるのです。このストレスが、相手が人であるというところから生じるストレスの周囲に存在する二重めのストレスで、あなたにとってかなりやっかいなものになるのです。

では、組織やチームの中には、どのようなストレスが渦巻いているのでしょうか。




2011年05月15日(日)

ストレスとは(2)

 言い換えれば、人間社会がさまざまな社会関係で成り立っている以上、人が生きていく上でストレスは欠かせないものだといえます。つまり、適度なストレスが必要だということです。適度なストレスは、日々のあらゆる活動の原動力となり、新しいことに挑戦するときや困難に直面したときに、エネルギーをもたらしてくれるのです。

 問題になるのは、ストレスが過剰にのしかかってきたときなのです。ストレスが過剰にのしかかってくると、自分自身を守りきれず、利用者さんや患者さん、生徒さんとの関係、職場の人間関係、場合によっては私生活にまで支障をきたすことになります。その支障がさらなるストレスの原因となり、悪循環を繰り返すのです。

 ですから、ストレスをなくすことではなく、過剰なストレスを適度なストレスに変えていくことが大切なのです。適度なストレスも、決して心地よくないかもしれません。でも、生きていく以上それは覚悟しましょう。

 さて、ストレスを引き起こすものを「ストレッサー」といいます。よくない人間関係や環境の変化などあなたにとって好ましくない刺激、あなたの「思うような状況」を邪魔するものすべてを指します。誰もが、「心は穏やかでありたい」「不安など抱えたくない」と思っているはずです。いつでも「思うような状況」の中で暮らしたり、仕事をすることができると、過剰なストレスを抱え込むことはありません。でも、ある日突然「思うようにならない状況」があなたを襲うのです。うれしくない話ですが、必ず、そういう状況は起こるのです。




2011年05月13日(金)

ストレスとは(1)

 ストレスとは、広辞苑(第六版)によると、「種々の外部刺激が負担として働くとき、心身に生じる機能変化」「俗に、精神的緊張をいう」などとしています。また、ストレス学説を唱えたセリエは、「何らかの外力によって、心理的に身体的にゆがみが生じた状態」と定義づけしています。

 人はみな、何らかの外からの圧力が加わったときに、心や体を守ろうとして反応します。緊張したり、身を固くしたり、思わず目を閉じたり、顔をこわばらせたり・・・その一連の反応がストレスなのです。

 「ストレス」というと、どうしてもマイナスのイメージがつきまといます。ストレスを抱えた状態のとき、決して「うれしい」とか「楽しい」といった気持ちにはならないでしょう。できれば避けたいものです。でも、よく考えてみると、マイナスばかりではなく、結果としてプラスをもたらすこともあるのです。

 たとえば、路地の多い細い道を車で通るとき、あなたは、「誰かが飛び出してくるのではないか」と神経を研ぎ澄ませ、用心して運転します。対人援助場面でもこうした場面はいくらでもあるでしょう。初めて出会う利用者さんの面談をするとき、対応困難な患者さんの家族の面談をするとき、あなたの部下となる新人職員が初めて出勤したとき、あるいは、あなた自身が新人職員として初めて出勤したときなど、誰もが緊張します。その緊張は、決して心地よいとはいえないかもしれません。でも、緊張することによって、相手を理解しようとする力や感受性が高まるのです。そして、専門知識や技術、これまでの経験で得たものを動員して、相手とかかわることができるようになるのです。




2011年05月11日(水)

燃え尽きの症状(4)
 「腰痛は、燃え尽きの症状だったのではないか・・・」とは思ったのですが、私には気持ちのしんどさは、ほとんどありませんでした。なぜならば、おそらく私には辞めるための前向きな理由があったからです。「大学院に進学するために現場を辞める。でも、大学院を修了すれば、大学の先生になって、将来社会福祉の現場で働こうとする学生たちを育てるんだ。現場の人たちに勉強したことを伝えるんだ」といった前向きな気持ちが強かったからだと思います。
 私のような場合はまだましなのです。最も気の毒なのが、「とにかく今目の前にあるしんどさから逃れたい」という一心で、あと先のことを考えずに突然辞めていくというパターンです。私の教え子にもそのような人たちがたくさんいました。よく相談があるのですが、ある教え子の場合は、呼び出して話を聴きました。「もう仕事を続けることができません。上司ばかりが気になって、利用者さんと向き合えないんです。明日にでも辞めるって言います」と言って泣きじゃくります。「辞めてどうするの?」と尋ねると、「今そんなことは考えられません。今は、とにかくゆっくり過ごしたい。気持ちが落ち着いたら次のことを考えます」ということでした。そして最後に、「これ以上続けたら、福祉の仕事が嫌いになりそうです・・・」というおまけ付きでした。結局、彼女は、年度途中の中途半端な時期に辞めていきました。対人援助の職場では、このように燃え尽きていく人が実に多いのです。
 多かれ少なかれ、対人援助職ならば、誰もが燃え尽きに陥ります。ですから、ひどくなる前に何とかしなければいけません。これは、あなたの問題でもあるのです。



2011年05月09日(月)

燃え尽きの症状(3)
 「大学院に進学するために辞めよう」というのは、実は私のことで・・・私は、36歳のとき、社会福祉現場を辞めて、大学院に進学しました。9月に入試を受け合格しました。翌年4月に入学でした。現場を辞めて大学院に専念しようか、現場で働きながら大学院に通おうか、ほんの少し迷ったのですが、思い切って現場を辞めることにしました。そして、自分の部署の上司、同僚、部下、他の専門職など全職員を一人ひとりつかまえて、「来年3月いっぱいで辞めさせてもらいます」と宣言し、その理由を説明しました。つまり、自分自身で、翌年3月で辞めるという縛りをかけたのです。そして、現場生活最後の半年間、辞めるということを前提に仕事をしました。
 その最後の半年間、私は激しい腰痛に悩まされていました。当時、私はリハビリテーションセンターに勤めていました。リハビリテーションセンターで腰が痛くなっても、整形外科の医師、理学療法士、作業療法士などがたくさんいますし、便利といえば便利なのですが、いくら治療をしても、結局治らず3月末を迎えました。
 4月になって、大学院に入学し、通い始めて2週間ほど経ったときのことです。ふと気がつけば、腰痛は治っているではありませんか。治ってから思いました。「腰痛は、燃え尽きの症状だったのではないか・・・」。そういえば、最後の半年間はたいへんでした。日々の業務をこなしながらも、自分が辞めるための調整をしていたのです。私は総括的な立場にありましたが、私の仕事をそのまま引き継ぐ職員はいませんでした。ですから、自分の仕事を切り割りし、この部分は上司に、この部分はこの主任に、この部分は看護師に、といった調整をしていたのです。それが結構たいへんでした。



2011年05月07日(土)

燃え尽きの症状(2)
 さらに症状が進むと、本当に仕事に行けなくなります。朝起きると頭がガンガンするのです。吐き気がするのです。おなかがキューッと痛むのです。「これはいけない」と思って職場に電話を入れます。「体調が悪いので休ませてください・・・・」。ところが、電話を切って30分もすれば症状は治まっています。すると、「症状が治まったのに私は仕事を休んでしまった・・・」と自分を責めるのです。これでは、仕事を休んでも気持ちが休まりません。つまり、責任感の強い人ほど燃え尽きやすいということになります。
 「燃え尽きない人を雇いたければ、責任感のない人を雇ったらいい」。そういう訳にはいきません。やはり、責任感の強い人を雇いたいものです。でも、責任感の強い人は燃え尽きやすい。ですから何とかしなければいけないのです。
 さらに症状が進むと、「もうこの仕事を辞めよう・・・」。辞めることを考えます。辞めることを考えても、まだ元気なうちはいいのです。なぜならば、辞めるための前向きな理由を見つけることができるからです。「大学院に進学するために辞めよう」「専門学校に行って違う資格を取ろう」「結婚を契機に辞めよう」「出産を契機に辞めよう」などです。



2011年05月05日(木)

燃え尽きの症状(1)
 燃え尽き症候群(バーンアウト)とは、マスラックによると、「極度の身体疲労と感情の枯渇を示す症状」とされています。その原因となるものがストレスなのです。人は、過剰なストレスを抱え込むと、それに耐えきれず、対処できなくなります。そして、心や体にさまざまな症状が現れ、苦しむことになるのです。
 燃え尽きの初期の症状としては、「なんとなく体がだるい」「やる気が出ない」「頭が重い」などといった風邪にもよく似たような症状が現れます。「風邪かなあ?」と思って薬を飲むのですが、なかなかすっきりしません。少しよくなってはぶり返すといった症状を繰り返すのです。
 少し症状が進んでくると、心の疲れを自覚できるようになってきます。例えば、朝起きるととても体がだるいのです。「今日は仕事に行きたくないなあ」と、仕事に行くことがおっくうになってきます。でも仕事に責任を感じていますので、しんどい自分にむち打って頑張って出かけます。ところが、職場に着いてもやる気が出ない。利用者さんや患者さんに機械的に接してしまう。後輩や新人に有無を言わせないように理屈ばかりをこねてしまう。大事な仕事を放ったらかしにしておいて、どうでもいいことを先にやって、結局大事な仕事ができなくなる・・・などといった症状が現れてきます。ここまでくるとちょっと進んでいます。
 ここまで話をすると、「ドキッ」とした方は多いのではないでしょうか。このあたりまでは、ほとんどすべての対人援助職が陥る症状なのです。ですから「職業病」だといわれています。



2011年05月03日(火)

新シリーズ 『対人援助職の燃え尽きを防ぐ ~仲間で支え高め合うために』
 燃え尽き症候群(バーンアウト)が、対人援助職の職業病だと言われて久しくなります。しかし、いっこうに燃え尽きる援助者は減りません。有効な対策が講じられていない証拠ではないか・・・などと思ってしまいます。「職業病」だと指摘されているぐらいですから、今まで何もしなかったはずはありません。なかなか有効な対策とならなかったのでしょう。
 燃え尽きの要因であるストレスは、多くの場合、人間関係から生じます。利用者さんや患者さん、あるいは、生徒さん、クライエントと呼び名はさまざまですが、援助を必要としている人たちとの援助関係から生じるストレスは確かに大きい。しかし、それよりもはるかに深刻なものが、職場の人間関係から生じるストレスなのです。
 「ストレスが職場の人間関係から生じるのであれば、職場の人間関係をいいものにすればいいじゃないか」。職場集団を仲間集団にする。こうした単純な発想から新シリーズを書くことにしました。
 対人援助の職場での仲間集団は、決して対等な関係の人たちばかりで構成されるものではありません。上下関係のある人たちも含まれることがあります。違う職種も含まれることがあります。そこには、当然下から上への流れ、つまり、上司も部下に支えられることや教えられることもあるでしょう。違う職種に支えられることや教えられることもあるでしょう。
 支えることも教えることも、ボクは今までスーパービジョンの機能として論じてきました。しかし、現在のところ、下から上へのスーパービジョン、また、違う職種間のスーパービジョンがあり得るかという議論に「イエス」の答えが出ているわけではありません。ですから、本シリーズでは、あえて「スーパービジョン」という言葉を使わないで「仲間で支え高め合う」具体的な方策を示していこうと思っています。



2011年05月01日(日)

新シリーズ 『対人援助職の燃え尽きを防ぐ ~仲間で支え高め合うために』
 「被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は、仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています」。
 東日本大震災から12日経った2011年3月23日、第83回選抜高校野球大会の開会式で、創志学園(岡山)野山主将が行った選手宣誓の一節です。苦しい生活を余儀なくされながらも復興に向かう多くの被災された人たち、そして、いろいろな形で被災者や東日本の復興を支援しようとする全国の人たちが一丸となっています。このように一つの同じ方向に向かって一丸となっている人たちを、野山主将は「仲間」と呼びました。仲間に支えられている人も「仲間」の一員ですから、全体的に、そして客観的にみると「仲間で支え合っている」ということになるのでしょう。
 あなたが働く対人援助の職場やチームの人たちも一つの同じ方向に向かっているはずです。ならば、職場集団も「仲間集団」になり得るはずです。そして、「支え合う」だけではなく、専門職ですから「高め合う」こともできるはずです。このように考え、「甚大な被害」があるなしにかかわらず、それぞれが感じる困難を乗り越え、目標を達成するために、一丸となること自体が大切なのではないでしょうか。その一丸となった状態が「仲間集団」ではないかと思います。無策で「仲間集団」を作ることはできません。個人や集団、そして組織が努力をする必要があるのです。
 と、いきなり厳しい話を書きましたが、この新シリーズでは、「仲間で支え高め合う」ことによって、対人援助職の燃え尽きを防ぐ具体的な方策を示すことにします。そのためには、努力が必要なのです。とはいっても、何をしたらいいのかわからない状況で「努力をしろ」と言われても、それは酷な話です。ですから、できるだけ具体的にその方策を示していくことにします。

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